今年は空海が高野山に真言密教を開いて1,200年にあたる年ということで各地の真言系の寺院で高野山詣でが盛んです。
我が家の菩提寺も高野山真言宗なので4月に高野山詣でが企画されていましたが予定がつかずにいたところ、還暦の仲間だけで高野山行きの話しが持ち上がり、
5月21日までの大法会に間に合うように行ってくる事が出来ました。高野山に行くのは真言宗の本堂を建てる際視察のために訪れて以来25年ぶりになります。
標高900mほどのところにある33万坪といわれる高野盆地は、今でこそ南海電車とケーブルカーで難なく行けますが、
それでも行く道中の険しさはかつて世人を簡単には寄せ付けなかったことを容易に想像させます。
その昔、犬を連れた猟人に案内されたといわれる空海の「高野山発見」当時はどんな秘境だったか、思いを巡らし想像するしかありませんが、
奥の院の大杉並木を見ることで往時を偲ぶ事が出来るでしょうか。
一大根本道場として出発した空海の高野山は、今、百数十棟の伽藍群に大学も備え、多くの宿坊や土産店が建ち並ぶ「高野町」に変貌しています。
例年でも百万人と言われる全国から集まるおびただしいまでの御信者たちとバスや車でごった返した風景は、空海ですら想像してはいなかったのではないでしょうか。
女人禁制は今は昔。泊まった宿坊の隣部屋からは夜遅くまで女性群のおしゃべりが聞こえてきました。
創建当時からあったといわれる中門は、これまで何度もの焼失から再建されてきましたが、天保年間を最後に再建されずにいたものを、
今年1200年祭を記念してかつての礎石の上に再建されました。落慶法要時に大相撲の横綱白鵬らを呼んでしこを踏んでもらい地固めをしたといいます。
金堂や金剛峰寺のご本尊御開帳など大法会でなくては見られない催し事が多くあり貴重な経験を戴く事が出来ました。
鎌倉仏教の教祖も多くは偉大であることは違いないのですが、庶民を相手に自らの欠点もさらけ出す親密さを少しは感じるものなのに、
この密教における空海の存在は完璧さを持つ何か別格のような思いを抱かざるを得ないのです。残した多くの著作、宗教家としての実践の数々。
どれをとってもその超人的な創作と活動は規格を外れています。
真言密教は宇宙の気息の中に自分を同一化する法であり、空海はそれを三密(さんみつ)と言いました。「印を結ぶ、真言―宇宙の言葉を唱える、
本尊を信じる」という三つの行を行う事以外に大日如来のいる宇宙に近づく事が出来ないというのです。死生観であり、宇宙論であり、人生観でもあって、しかも難解です。
その主たる著作である三部作「即身成仏義」、「声字実相義」、「吽字義」に至っては現在でも研究者が少なく未開拓であるといいます。
源頼朝も本居宣長も政治家や思想家として偉大であるけれども、それは「日本の」頼朝であり「日本の」本居宣長であって世界に向けての普遍性は無く、
唯一空海だけが「人類の」空海なのだ、といったのは司馬遼太郎氏だったように思いますが、それほどに巨人でした。
1200年の時空を経てなお、空海はいまだ神として生き続けています。
かつて高野山大学の先生が学生たちと古い登山路を登っていたところ、足を抜いて谷に落ちて気を失ってしまった。
薄暮の中気が付いたとき、学生たちが肌で温めてくれながら泣くような声で口々に「南無大師遍照金剛」と唱え続けていたという話があります。
遍照金剛は空海が長安で師の恵果からもらった名前です。我々も子供の頃、親から言われて何か願い事があるとき手を胸にこの名を呼んだ記憶がありますね。
空海が生きていることを前提に三度の食事を今でも運び続けている奥の院廟までの道程は、杉の大木が鬱蒼とする中、
信長や家康などの歴史に名を留める人たちの供養塔がおびただし数で並んでいて幽玄です。
空海が入定する2年ほど前に遺言した万灯会(まんとうえ)が今に伝承され、毎年4月21日にここで行われています。
灯籠堂に吊るされた万余の灯籠に一斉に灯が入れられる光景は、闇が常態で灯が貴重だった空海の頃の人々の環境を思うと目のくらむような華麗さであったと思われます。
名プロデューサーであった遍(あまね)く照らす「遍照金剛」の面目躍如といったところでしょうか。
|