東北新幹線が新青森まで伸びて久しいですが、首都圏から700q離れた地まで2時間40分ほどで行けるのは今でも新鮮な驚きに思えます。
東海道新幹線で西へ700qといえば岡山あたりまで行って3時間半かかることを考えてもその速さを感じずにはいられません。
来年の28年春には函館まで延伸し新幹線がいよいよ津軽海峡を渡ります。桜前線を追いかけてみたわけではありませんが、
その「はやて」に乗って青森まで足を延ばしてみました。行ってみたかったのは平成6年に発見された「三内丸山遺跡」。当時その規模の大きさと出土物をニュースで聞き、
4,500年前の縄文中期の豊穣さに感動的な驚きを覚えたのを思い出します。
実際にその場に立ってみると、なだらかな丘陵地帯となった集落跡は湿地帯を挟んで陸奥湾と繋がって、海の幸と山の恵みに支えられた地勢であることが分かります。
そして他の遺跡と違う特徴として6本柱跡に残された巨大柱の痕跡があります。柱間の寸法はきっちりと4.2mで、
縄文尺と言われる35pの12倍あることから12進法を使っていたと考えられています。
更にはすべての柱を内側に2度傾ける「転び」の技法が使われていたことや、少しずつ土砂を混ぜて固める「版築」の技法を使っていたことなど、
その高い技術力が示されています。 復元するに当たって内地材では対応出来ないため、
ロシアのソチから運ばれた重さ8トン、長さ7m、直径1mの栗の巨木が使われました。物見台とも高床式倉庫とも言われ、
その用途については諸説あって不明なため現在の復元物は屋根が架けられてなく寂しい感じがします。
狩猟・採集の時代にしては珍しく定住していて、墓地や住居数からその数は300〜500人くらいだろうと想定されています。
新潟・糸魚川付近から採れる「翡翠」が存在しその交易が確認され、
しかも装飾や祭祀に用いられたであろう450gもある大型の翡翠には中央に穴が綺麗に穿たれていて、その技術の高さがこの遺跡の評価を更に高めました。
モース硬度が7に近い翡翠に穴を穿つにはさらに固い研磨材が必要になりますが、
研究によれば管錐(くだきり)と呼ばれるパイプ状のものを使った形跡が認められるようで、
研磨材も微粉末にして水などの液体に懸濁した、今でいう「スラリー」を用いていたのではないかといいますから驚きます。
県内には亀ヶ岡遺跡、十腰内遺跡など少し時代の下がった縄文後期の遺跡も昔から知られていましたが、
この大きな三内丸山の発見によって青森地方の縄文期の輝きは不動のものになりました。
その亀ヶ岡遺跡はここから西へ車で40分くらい行ったところの木造(きつくり)町の南北に連なる丘陵地にあります。
独特の土器や土偶が出土したことで世界的に有名になり、得体の知れぬ甕(かめ)が出土するところから、
古くから“甕ヶ岡”と呼ばれ、やがて亀の字が当てられたといいます。そこから出土した中の最も印象的なものが「遮光器土偶」で、
強調された両眼の表現が、エスキモー・イヌイットが晴れた雪原で使う遮光器に似ているためにそう呼ばれてきたようです。
そのJR五能線の駅舎には壁面一杯にその「遮光器土偶」のレプリカが設えられていてびっくりすると同時に笑いを誘います。
本数の少ないローカル線ですが、電車が到着するたびにその眠ったような眼の隙間から光が出てそれを知らせると案内板にありました。
これらの遺跡にみられるように数千年続いた縄文時代には豊かだった陸奥の国は、当時貧寒たる暮らしをしていた縄文西日本に対してはるかに優位に立っていながら、
その後、西方からの力と文化に押されその体制に組みされていく中で僻陬の地になって行くという不思議さを感じます。
そのあと少し南に足を延ばして、弘前にある津軽家の菩提寺・長勝寺を訪ねました。ここには三門をくぐった本堂の奥に歴代の霊屋(たまや)が5棟佇んでいます。
2代目藩主津軽信枚(のぶひら)と正室満天姫(まてひめ)の霊屋も並んで配されています。満天姫は家康の養女として信枚に嫁いだ人ですが、
信枚はすでに石田三成の遺児で関ヶ原後にかくまった辰姫を妻としていました。
北の防人として津軽家との縁を強めたい家康の勧めで満天姫を貰い受けることを拒み切れず、
止む無く辰姫を飛び地である群馬県太田市大舘の地に住まわせることになります。参勤交代のたびに信枚は大舘に立ち寄り終生辰姫を大事にしたと伝えられます。
今、8月の旧盆に「弘前ねぷた祭り」がこの太田の地で見られるのも、そんな辰姫の縁があったからこそと言えるかもしれません。
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