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赤石建設株式会社 一級建築士事務所
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平成27年3月


 今年の干支は「羊」。5回目の年男を迎えて、周りは定年後にセカンドライフをと自適な生活に入ろうとしていますが、 こちらは定年のない稼業なのでもう少し頑張らないといけません。
 各地で羊年にちなんで羊にまつわる神社や名所が盛況だと聞きます。
 群馬県の多野郡吉井町(現高崎市)に「多胡碑(たごひ)」と呼ばれる有名な石碑があります。 漢字80字で書かれた内容は資料を通して想像を膨らませると「羊」に関する一つの大きなドラマが展開して好奇心をそそります。
 多胡碑は近くの八束山(やつかやま)から出る八束石で作られた笠をかぶった高さ152pの立派な石碑です。
 和銅四年三月九日甲寅の日付がはっきり読み取れるように、西暦711年のものだと分かります。 地元の人たちから「ひつじさま」と呼ばれて1300年もの間大事に保存されてきた石碑です。 戦後進駐軍に毀されることを心配した土地の人は碑を土の中に埋めて守ったと言われています。何がそんなに大事だったのか。
 文言はおおよそこんな内容を伝えています。
 「朝廷の弁官局から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘楽郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、
羊に支配を任せる。 郡の名は多胡郡としなさい。和銅四年三月九日甲寅。左中弁正五位下多治比真人による宣旨である。太政官の二品穂積親王、左大臣正二位石上尊、右大臣正二位藤原尊」
 後半に出てくる人名はそれぞれ、多治比三宅麻呂(たじひのみやけまろ)、穂積親王(ほずみしんのう)、石上麻呂(いしのかみまろ)、藤原不比等(ふじわらのふひと) という奈良朝の藤原政権の人たちであることが容易に分かります。
 内容としては比較的分かりやすく、律令国家の始まる平城京の時代にこの上野国三郡の中から割いて新しく多胡郡を設けたという意味です。 しかし、「羊」なる人物とはだれなのか、なぜ彼にこの地を分け与えたのか、については碑は語っていません。 藤原政権の記録である「続日本紀」や吉井町の地元町誌などの資料を付きあわせていくと次のような説が浮かぶといいます。
 「慶雲年間武蔵国秩父黒谷より銅が発見され、年号を和銅と改め秩父郡に奈良朝廷の出張所が設けられ、多治比真人なる人が採鋳銭所長官として着任。 この地方の帰化人から大陸仕込みの製銅技術に優れたものを募集して、その中から技術と行政手腕を買われて羊太夫が選ばれ技術長官となった。」
 以前この稿で秩父・和銅遺跡のことに触れたことがありましたが、この多胡碑にある羊と和銅遺跡に伝わる羊太夫の伝説がここで接点を持つことになります。
 和製の銅を秩父から生産して毎日のごとく奈良の都へ運ぶことにより、 銅銭鋳造を可能にし貨幣経済が発達、平城京建設の材料にも利用され藤原政権の財政基盤を盤石なものにしていきました。 多治比真人→藤原不比等のラインを通して、その冶金採鉱の功績により羊太夫は別に一郡をつくって、帰化人として一自治国を給わることになります。 多胡とは多くの胡人、つまり帰化人が支配する郡となっていったのです。
 吉井の地はそこに立ってみると、深く落ち込んだ鏑川を挟んで丘陵の傾斜地が多く、起伏の多い乾いた田畑が続く地形ですが、 そこに帰化人による帰化人の自治国ができたことの喜びを多胡碑は伝えているのです。この土地の先祖たちはさぞやうれしかったに違いありません。 その喜びを長く伝えんがために大切に保存してきたというのです。
 しかし「盛者必衰の理」の通り、養老四年に稀有の大政治家・不比等が死んだことから形勢は大きく動きます。多治比真人はその後失脚、 羊太夫もあらぬ讒言により謀反の疑いをもたれ、南都から官軍が羊征伐に向かう事態となっていったのです。
 







 その後羊太夫はこの多胡郡の山中で殺されたとも、秩父の地へ逃れたとも言われています。
 この羊太夫の一連のはなしは寓話を交えつつ、日本に住む少数民族の悲劇を伝えています。南都政権の権力争いに翻弄された一帰化人の哀れさを思わせるのです。
 旧甘楽郡にあって多胡郡に編入された「韓級(からしな)」の地に和銅四年、新しい郡の誕生を記念してこの地の人たちによって韓級神社がつくられています。 明治になって「辛科(からしな)」に改められましたが、今でも毎年多胡碑を建立した三月九日の月遅れの四月九日に多胡郡の住民が集まって祭りがおこなわれているといいます。
 不比等、奈良〜秩父〜吉井。600qも隔てた地で、銅を触媒に和銅という年代を契機として新しい日本の国つくりが始まろうとするとき、どんな政争があったのか。 その入母屋三間間口の拝殿と奥の大羽目彫刻を組み込んだ流れ造り1間社の本殿をみていると、和銅四年の喜びの日と、 官軍に逃げ惑う羊太夫の姿とを重ね合わせて少し胸に迫るものを感じてしまうのです。







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