秋の京都といえば紅葉が有名ですが、なかなかこの時期に訪れることが至難の業で、宿泊先を予約することさえ叶わない状態ですが、
そんな中うまく宿を取る事ができ修学旅行以来の紅葉時の古都を訪ねることができました。
長男が京都にいるので案内役をお願いして主に東山方面を歩いてみることにしました。
哲学の道から入って最初に慈照寺銀閣を訪ねました。
金閣寺とよく対比される銀閣ですが、建てられた年代としては銀閣のほうがずっと後になります。金閣を建てたのはあの足利三代将軍の義満でしたが、 銀閣は孫に当たり八代将軍となった義政でした。かれは文化人でしたが政治的には無能の人と言われて後世に伝わっています。
可愛そうな言われ方ですが確かにまつりごとに嫌気がさし、四十歳前にして隠居しこの東山の地に逃れるように庵を結びます。
代わりに弟の義視を還俗させて後継にしましたが、その後に正妻の日野富子に実子ができたことから争いの火種ができ、
のちにあの応仁の乱に発展し足利幕府の衰退が始まったことを考えると、その政治家としての責任は大きかったと言われても仕方ないと思われますが、
反面造園や建築などには造詣が深く自らも手を掛けた一流の文化人と言われています。建築的には金閣を意識したことは明らかで、
二階建て柿葺き方形の様式は寝殿造りと禅宗様の組み合わせになっていますが、外皮を覆うのは金箔ではなくかつては黒漆喰だったと言われ今でもその跡が二階部分に残されています。
苔寺を参考にしたと言われる庭園は広く変化に富んだ秀逸なもので、中秋の名月の時には月待山の上に見事な月が浮かぶのだといいます。
また合わせて一般公開されていた国宝の東求堂が拝観できたのは僥倖でした。創建当時のまま残され、
か細い部材を巧みに組み合わせて書院や座敷飾りなどに数寄に近い意匠が出来つつあることを教えてくれます。
強欲で悪妻と言われる富子と思うに任せない側近たちのいさかいに嫌気がさして、すべてを放り出して隠遁する気持ちになったのも分からなくはないですが、
飢饉で庶民が生死の中をさまよっている中でのこの普請事は放蕩といわれても仕方ない所業でした。
しかし皮肉にもその犠牲の上に立った数寄の好奇心が今も後世に伝わり人々を魅了し続けています。
「足利将軍家十五代は一人の名君も生まなかった」とは司馬遼太郎さんの言葉ですが、いざ文化の面でいえば禅宗を盛んにし、
侘び寂びの精神に通じる茶道や華道などの様式を生んだことを考えると義政は今の日本人の原型を作ったと言えなくもありません。
この銀閣の上棟式を迎えた後完成を見ずに世を去った義政はこの東山殿でどんな夢を見たかったのでしょうか。
銀閣を後にして永観堂、南禅寺を廻りましたが、人また人の混みようで満足に拝観できる状態ではありません。
黒谷、平安神宮、夜の清水と17キロほどを歩いて疲れ切って投宿。
翌日は早めに出たものの午前8時過ぎにはすでに東福寺の通天橋はラッシュアワーの満員電車状態で、 逃げるように廻ったのが東山山頂・将軍塚にある青蓮院門跡の青龍殿でした。
かつて左京区にあって大正期に建てられた武道館を移築して新たに収蔵庫と舞台を設けたものでこの秋に完成したばかりです。 見どころは清水の舞台より5倍広いと言われる木の舞台で、斜面に負担を掛けないよう12m持ち出しの杉材による方杖トラスで組まれています。
ここから見下ろす京都市内は清水などのある東山地区と市内の北半分が見渡せ、見える建物を一つ一つ確認していると時間を忘れるような見ごたえがありました。
この舞台を作った工事人たち、特に仮設計画を担当した職人や技術者の労苦を偲ばせます。
平安遷都以来1,200年に渡って栄えてきた京都。 多くの人の思いが詰まった歴史的遺産を保ちながら経済活動をして行かなくてはならないジレンマは立場によって見方を変えていきます。
前川國男設計の京都会館後に出来る31mの高さを持つ新会館の是非をめぐって景観論争が起きているのもその一つ。 そんな一つ一つに公共の福祉と個人の受忍限度、経済性の折り合いを見出してきた解答の集まりが今の街の姿なのだと思うと、
東山の舞台から見る市内の景観に感慨と共に深い敬意を覚えるのです。
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