「武士の家計簿」の著者で知られる歴史家の磯田道史氏が、過日新聞紙上に「浜松には史上最強の霊地がある」と紹介したのが浜松の元城町東照宮でした。
それはかつてここが城であった時にいた二人の若者をのちに天下人にし、
その後もここを居城とした多くの譜代の家臣たちも出世を成したことから「出世城」と呼ばれたことに由来しているそうです。
その二人の若者とは秀吉と家康で、秀吉は藤吉郎時代の16〜18歳の3年間をここの旧引間城(かつては曳馬)で過ごし、
家康は現在の浜松城を築城する前の永禄11年にここに入城して以後17年間を浜松で過ごし、のちに共に天下人となって行きます。
なるほど、数えるしかいない天下人を二人も出した場所であればそう呼ばれても異論は挟めませんが、
浜松駅構内に出ていた幟が「出世の街 浜松」で、そのゆるキャラが「出世大名 家康くん」になっているとは知りませんでした。
しかもその意匠には袴柄がピアノの鍵盤に、ちょんまげがウナギに、羽織の紋所がみかんにと、浜松の名産品が散りばめられているといった凝りようです。
磯田先生の話しから訪れた人は多く、中にはそれがためか事業がうまくいき灯籠を寄進する社長まで現れたと聞いて、
尻軽な私はつい浜松に足を延ばし行ってしまいました。
もちろん「東照宮」ですから家康公を祭っているのですが、それは後年明治維新後徳川慶喜公の名代・井上氏が創建したもので、
その後昭和の戦争で焼失し昭和35年に地元の人によって再建されたとあります。拝殿はコンクリート造りになっていて、
唐破風の向拝には龍の木鼻や虹梁の彫り物、支輪部の眠り猫などに凝った意匠が見られます。場所は浜松城公園から東に400mほどの小高い丘陵地に建っていて、
広さはたかだか50m四方ほどしかありません。東海道の要衝として平地の多い浜松にあって丘陵地だったがために引間城が建てられたのだろうと想像されますが、
城主は飯尾豊前守備という人で、その家臣の松下某というものの家来になったのが若き日の藤吉郎だったといいます。
地元の古い記録には側近としての仕事を完璧にやり遂げ、異例の出世をしたとあるそうです。
しかし尾張のよそ者が武家の秘書的な存在となっては同僚からの排斥に会うだろうと憐れんだ松下は永楽銭300枚を与えて本国に帰したといいます。
その後の秀吉を彷彿させるエピソードではあります。
かつて7年ほど前に天龍杉の検品で来た際に寄ったことがありましたが、今の浜松は大同合併によって北は長野県境の天龍から、
南は遠州灘の海岸線まで全国第2位の広大な面積を持つ80万都市になっています。
東海道遠州のかなめとしてかつての歴史舞台となったところには多くの隠れた史跡が埋もれていますが、それは何も戦国時代のものばかりでなく、
近現代も含めた災害の歴史も伝えています。浜松はこれまでにも大きな地震災害に何度か見舞われていて、和銅年間や明応、安政年間から、
日本史上最大規模の内陸型地震だったといわれる明治24年の濃尾地震、戦争中で公にされず軍部の指示で秘された昭和19年の東南海地震と津波被害まで、
数多くの記録が残されています。英雄たちの歴史ばかりでなく、
災害で亡くなっていった市井の人々の行動から今後の被災時に生かす教訓としての災害学を磯田先生はいくつか著しています。
郷土に残された古文書から大地震や津波の前兆現象を拾い、直前に海鳴りの音が聞こえたり、井戸の水が突然枯れたり濁ったりしたことを紹介しています。
津波時の避難の仕方も行政などの指示を待つことなく夜の暗がりや見知らぬ旅先の場合も含めて、自己の判断で高台へのルートを普段から確保しておくことや、
決してものを取りに家に引き返したりしてはいけないこと、
津波は寄せ波よりも引き波のほうが速度も速く流されやすいため、寄せ波にあっても諦めず何かに掴まって身を守ることなどを指摘されています。
今にも生かせる教訓が歴史には多く残されていることを教えてくれています。
浜松のパワースポットに触れた後、「家康くん」に綾かって昼飯にウナギを食べ、その足で浜松市楽器博物館に寄って鍵盤楽器の歴史を見学し、 帰りには三ケ日みかんを食べて来たので、これで天下人の二人のように出世できるかなとの問いかけに、「もう遅いんじゃない?」とは女房殿の言。
然もありなん.....。
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