新潟県を地図で見ていると東側の越後山脈から西は広大な新潟平野が日本海まで緑色で広く描かれています。
その間茶色で色付けされているのは柏崎付近の米山近辺とさらに小さく弥彦山くらいしかありません。
新しい潟とは良く名付けたもので、この辺りは昭和初期まで人が入ると胸あたりまで水が浸かってしまうような湿地帯でした。
この湿地帯を名立たる稲作平野にしたのはまだごくごく最近の河川の付け替えと排水機による水抜き事業に依ります。
いつだったか亀田郷というところで胸まで水に浸かりながら稲床を浮かした桶の中に入れて田植えをしている昭和30年頃の映像を見て、
日本人はこんな過酷な想いをして稲作をしてきたのかと驚きをもったことがあります。
活動をほとんど制限される冬の豪雪と稲作には適しない湿地帯の潟での労働を強いられる裏日本気候。明るい表日本への怨念ともいえる思いは、
後年田中角栄によって上越新幹線と関越自動車道で実現されます。若き日の田中は谷川岳をぶっ壊すと公言して憚らず、
実際当時の建設省に見積りをさせて約3兆円との試算も出していたと言います。
その新潟蒲原平野の西端にある弥彦神社を訪ねました。
田中のおかげ?で、熊谷駅から最寄りの燕三条駅まで上越新幹線で行けば1時間半弱で着いてしまいます。
余談ながらこの燕市と三条市はライバル関係にあると聞いたことがありますが、確かに新幹線駅は「燕三条駅」ですが、
北陸自動車道のインターは「三条燕インター」となっていて紛らわしい。ワールドカップの韓日か日韓かではありませんが、
順序を競った跡が窺い知れますね。
そう高くない弥彦山ですが、平地の中にあるため遠くからでも一瞥できます。昔から蒲原の広い稲作地から遠望でき民衆から崇められたことは想像に難くありません。
越後一ノ宮である弥彦神社はご神体が弥彦山そのもので、その手前に三間社流れ造りの向拝唐破風付の社殿が配置される構成になっています。
神道はもともと社殿を持たなかった、という見方がこの神社越しに見える弥彦山を見ていると正しいことが分かるような気がします。
説明書きには明治末に大火で焼失後、大正5年に現在地に再建され平成13年に屋根の葺き替え等の大修理が行われたとあります。
山門から中の境内を広く取り、銅板屋根を考慮した端正な軒反りをしています。
弥彦山の標高は634mで、ロープウェイで簡単に頂上に上がることができます。頂上駅には「634mはスカイツリーと同じ高さ」との表示がされています。
万葉集に謳われるほどの御神体の山がなにもスカイツリーにへつらうような言い方をしなくてもよいのにとつい思ってしまいます。
この山頂からの眺めは格別でした。南には燕市と三条市が一望でき、その先には蒲原の稲作地帯が広がります。北側は日本海を見下ろし、
遠くに横長に黒く見えるのが佐渡島だとすぐわかります。直線距離にして30qちょっとです。
夏の今頃「奥の細道」の途上ここに寄った芭蕉はこの情景を「荒海や 佐渡に横たふ 天の河」という名句で歌い上げました。
荒海と佐渡と天の川というただの名詞を並べただけなのに、「横たふ」の係り動詞一つでこんなにもスケール感が出るものかとその推敲の深さに感心します。
以前この稿でも書きましたが、この蒲原の地は母方の祖母の生地でもあります。
幼少の頃、近在の人が行ったように親に連れられてこの弥彦山に登ったことがあったでしょうか。その時佐渡を見て上の芭蕉の句を聞かされたでしょうか。
蒲原の風景の奥の憎き谷川岳のさらに先の群馬の地で暮らすことを想像できていたでしょうか。
この緑の稲穂の地がかつて湿地の潟だったころを想像するように、古ぼけた写真でしか見たことのない祖母の遥かな昔の姿を勝手に思い巡らしていました。
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