加賀(石川県)はある意味不思議な郷(くに)であるといえます。
上代ではその大きな沖積平野は排水などの困難さから、多くが荒蕪のまま放置されていたとされ、鎌倉期の頃から大いに水田化が進み、
小規模の地主や自作農が多く出て活力に溢れていたといいます。その頃仏教界に親鸞が現れて念仏を説いたのは主に農民に対してでした。
飢えをしのぐために魚介や鳥獣を殺さざるを得ない殺生の仏罰を逃れるための供養や寄進ができない貧しい農民たちは悪人とされ、
それに対して法然は「悪人も往生できる」としましたが、親鸞はさらに徹底して「悪人だからこそ往生できる」と説いてみせました。
この親鸞の教えをその八世後の蓮如が室町の乱世の中で広めていきます。北陸に巡教し、特に加賀において大いに広める事が出来ました。
越後は農民の経済的成長が遅れていたこと、越前は叡山の荘園が多かったがため逆に進歩的であったことから、加賀が最も条件が備わっていたとされます。
蓮如の方針で真宗(一向宗)の講組織が形成され、その横のつながりは一国をなし、ついには守護大名・富樫氏を倒すまでになります。
一種の農民による共和制が起こり、「加賀は百姓の持ちたる国」と言われ、信長の北陸遠征までなんとこれが百年続くことになります。
群雄割拠の戦国時代のほとんどを加賀は誰にも支配されない農民の共和制であり続けたという、後年考えても不思議な現象を持つことになります。
秀吉統一後、前田家をもって加賀は支配され、その非軍事的な藩経営によって今度は加賀百万石の大藩をもって江戸期に君臨します。
そして幕末、佐幕派であったがためか、共和制の気質からか、大いなる人物を持ちえないまま明治維新に乗り遅れます。新政府からは冷遇され、
明治初期までは石川県となってからも不遇を強いられることになります。
明治11年5月、西南の役平定後落ち着いたかに見えた新政府に「大久保利通暗殺」の衝撃が走ります。
紀尾井坂で馬車に乗った大久保卿が島田一郎ら郎党に斬殺されます。この犯人島田らの出身が旧加賀藩士であったことは、先の加賀への冷遇と無関係であるとは思われません。
事件前、その動向を知らされた際にも、薩摩人である大警視川路利良の「加賀の腰抜けに何ができるか」という言葉にも表れています。
少し歴史解説みたいになって気恥ずかしいですが、そんな歴史観を持って金沢周辺を歩くと一つ一つが意味を持って見えてくるものです。
その金沢北隣りのかほく市に「西田幾多郎記念哲学館」があり訪ねました。
日本の哲学の草分けで京都学派の創始者としても知られる西田幾多郎(きたろう)はここ、かほく市に生まれた人でした。解説本の受け売りのようになりますが、
禅経験から仏教思想と西洋哲学を融合させたと言われ、代表作「善の研究」で純粋経験論というものを展開していきます。
「竹は竹、松は松と各自その天賦を十分に発揮するように、人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である」などと説かれています。
同郷の鈴木大拙(本名貞太郎)、藤岡作太郎らと「加賀の三太郎」とも称されます。
この加賀に世界的にも知られる哲学者や国学者が同時期に三人も生まれたというのは、これまでの加賀の翻弄された歴史からして、ただの偶然とは思われないのです。
その思想には宗教観が強く、思索だけでなく実践と行動を伴わねばならないという強い働き掛けを感じさせるものだといいます。一向宗による自治を続け、
自ら考えるという土壌が醸成されて行ったものだと考えるのは少し穿ち過ぎでしょうか。
哲学館は安藤忠雄氏設計による鉄とガラスとコンクリートの大規模な二棟建ての構成で丘陵の上に座しています。地下から天空を見上げる吹抜けには、
やはり禅の思想から採ったものなのでしょうか、円で天窓を切ってあるのが印象的に感じられました。
西田が思索に散策したのは京都にある琵琶湖疏水沿いの「哲学の道」と呼ばれる道でしたが、この哲学館の広い敷地の中にも哲学の杜と呼ぶ木立の中に、
館と駐車場とを結ぶ「思索の道」が用意されています。
一見、形而下にあるものには必要のないもののように思われる哲学ですが、生きていくうえで幾度か先達の知恵に縋って必要と思わせられることがあるといいます。
「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」という「絶対矛盾的自己同一」とはどんな境地なのか、及ばないながらも考えていくことに意味がありそうです。
エレベーターホール前に置かれた小柄な西田のブロンズ像を、生涯思索に明け暮れたその時間の量と重さを思い量って見続けていました。
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