長野北信にある戸隠地方は天の岩戸伝説と蕎麦で有名ですが、
4月中旬新緑の戸隠をお目当てに出掛けてみましたが、標高1,200mの高原は新緑どころかまだまだ雪の多く残る冬に近い状態でした。
かつては遠い秘境のイメージのあった戸隠ですが、今は新幹線で1時間ちょっとで長野駅、そのあと車でバードラインを40分も走ればもう戸隠神社の中社です。
弟のスサノオノミコトの悪行に怒って岩戸にお隠れになってしまった天照大神に、
出て来てもらうために天手力雄命が力ずくで天の岩戸を投げ飛ばし、
それが戸隠山になったと言い伝えられます。遠くからでもその独特の山容からすぐそれとわかる戸隠山は標高1,904mの屏風状の山で日本百名山にも加えられ、
その尾根は巾50pと人が鞍のように跨げる狭さといわれ、まさに岩戸を思わせる櫛形の形状をしています。
戸隠の修験道としての歴史は古く、670年代の天武帝の頃からとされていて、鎌倉期にはその宿坊が多く建てられかつては「戸隠三千坊」と謳われ、
江戸期には講などにより広く一般の人々も訪れ賑わいを見せたといいます。
修験道は本来、山へ籠って厳しい修行をすることで悟りを開く日本独自の山岳信仰で、役小角が創始者とされています。
神仏習合により土着の神々と結びついていたものが、江戸幕府の時代になって修験道法度により密教の真言系か天台系に分けさせられ、
それぞれ京都聖護院と醍醐三宝院に属すことを定められ仏教色を強めていきました。これがさらに明治維新後の神仏分離と廃仏毀釈により一切の仏教色を減じて寺を廃し、
神道となって明治以降戸隠神社として残されたという翻弄された歴史を持っています。
本来、権現や天狗などを崇めて神道・仏教とは違った行法や呪術などで成り立っていた修験道を神仏分離政策は強引に還俗・神道化させてしまったと言えます。
いま参道脇にある杉並木は慶長年間に幕府により朱印地を拝領した際に整備されたもので、約2qに渡ってクマ杉が植えられ今では樹齢400年ほどの大木に育って林立しています。
周囲は社叢として伐採を禁じられていたため、針・広葉樹が混ざった貴重な生態を持つ原始林的社叢として保存されていて一層幽玄な雰囲気を醸し出しています。
奥社をはじめ、中社、宝光社、九頭竜神社など多くの神社が併存し、それぞれに祈願神を持ち近年ホットスポットとして人気を呼んでいるようで、
特に関西方面から若い女性の参拝が多くなっていると聞きます。
正面の大鳥居からまっすぐ伸びた杉並木の参道を、雪を除けながら歩いて隋神門まで行きましたが、それから先は普通の靴では滑って危険なので奥社まで行くのは断念しました。
周りには自然散策路が整備されていて、少し歩いたところにある鏡池には池面に逆さ戸隠山が映るとのことで目指しましたが、
残雪深く歩道が通行止めになっているためこちらも行けずじまい。新緑の頃になればマイナスイオンの充満した森林浴と、
クロジ、キビタキなどの珍しい野鳥の繁殖地で知られバードウォッチングも堪能できたのでしょうが少し時期が早かったようです。
もう一つ戸隠といえば蕎麦。霧下蕎麦といわれるように、秋そばの実る8月下旬から10月中旬にかけて昼夜の寒暖差と霧による気候条件がそばの実を美味しくすると言われています。
火山灰地で水はけが良いことが条件で、逆に言えば稲作には不適な痩せた土地柄と言えます。「ぼっち盛り」と呼ばれる大きめの束での盛り付け方で出てきて海苔は使われません。
元々が山伏たちの携行食料として持ち込まれたといういきさつからか、「そばがき」の形態が多かった名残りといわれます。季節柄、タラの芽やコゴミなどの山菜が旬で、
添えられた天ぷらは新鮮美味。奥社参拝や散策には少し早かった時期ですが、こと蕎麦と山菜に関してはちょうど良い時期に極上の味を堪能できたようです。
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