雪の融けきらぬ3月中旬、久方ぶりに日光東照宮を巡る機会がありました。
世界遺産指定後となってからは初めてでしたが、いたるところに「世界遺産」指定の看板が出ていて観光に一役買っているようでした。
しかし残念なことに、お目当ての輪王寺三仏堂、陽明門が改修工事中で、いずれも大きな上屋が架けられて全景を見られずじまいでしたが、三仏殿は内部が見学できるようになっていて、返って建築関係の者には参考になることが多くありました。
日光は知られているように東照宮、二荒山神社、輪王寺の二社一寺で構成されていますが、中でも東照宮の建築群が一際豪華絢爛さを誇っています。
東照宮は家康公の廟所として元和年間に創建されますが、寛永13年の21周忌法要に向けて将軍家光によって大造替が行われ、今日見る荘厳な社殿へと造り替えられています。この時の大棟梁が駐車場脇に銅像として立つ甲良宗弘です。
家光の時代の寛永期における大工集団甲良一門の活躍は目覚ましいものがあり、鎌倉鶴岡八幡宮、江戸愛宕社、山王権現社など名だたる名建築に携わっています。
特に彫り物師としての技量に卓越したものがあり、その評判は江戸中に聞こえたといいます。元々は近江の出身で関西を中心に活動していたものが、いかに技量抜群としても、多くの譜代大工を押えて家光に抜擢されたのは不思議な感じがします。
それを考えるには創建時の東照宮を造営した当時までさかのぼってみる必要があるかも知れません。
元和創建時の東照宮は今見られるものに比べてたいそう簡素だったと言われています。
その時の奥宮拝殿を移築したのが太田市にある世良田東照宮拝殿として残っており、これを見る限りその簡素さを傍証できます。彫り物は唐破風下の蟇股や大瓶束などのきわめて常識的範囲に限られていて、
寛永期の現存のもののように建物全体を彫り物で飾るのとは比較にならないものとなっています。 この元和期の建築を差配したのが家康に取り立てられて官位まで与えられた中井正清でした。上方で活躍して伏見城などの造営に携わり、
以降家康の江戸基盤整備に伴い活動の場を東に移し、江戸城や増上寺の大建設にかかわっていきます。技術に秀でていた以上に政治力に富んでいたことが察せられ一世を風靡しました。
その中井家大工集団の中に甲良宗弘がいたとされます。木原家など譜代大工との激しい競争の中で時代も家康から秀忠、家光と変わっていく中、 したたかに業績を重ねていったのが中井〜甲良の大工集団だったのです。そういう意味からすれば、甲良が後年寛永の東照宮でその技量をいかんなく発揮できたのも、
家康没後2年余で後を追うように世を去った中井正清という名伯楽がいたからこそだと言えそうです。 あの家康に重用されるほどに中井は政治力と経理に秀でた稀有のプロデューサー棟梁だったと言えます。
甲良宗弘が造ったとされる唐門は四方を2段の複雑な唐破風で納め、胡粉の白を下地に様々な原色の彫物・絵様を交錯せしめて人工の極みを尽くしています。 「専制者芸術の極みとして明澄さも、清浄さもない」とブルーノ・タウトには嫌われましたが、安土桃山建築の最後の建築として歴史的なものには違いありません。
これを最後に建築事業は安定・低迷期を迎え、明暦の大火も相まって、江戸期の建築事情は経費節約の幕命により今でいうリフォーム市場に移っていくのです。どこか今の時代に通ずるような時代背景が透けて見えて来ます。
それにしても彫り物大工延べ29万余、平大工38万余、木挽10万余、合計78万人に及ぶ技術者を動員して、わずか5か月とも1年とも言われる超短工期で造り替えられたと古資料は伝えますが、重機も電動工具もない時代、材料の運搬、加工場の確保、宿舎、食事の世話等々、あふれんばかりの職方の配置や差配をどう行ったのか思いを巡らしていると、それこそ「日暮しの門」になってしまいます。
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