晩秋の11月、十数年振りかに飛騨の高山を訪ねる機会がありました。
上高地からそれて岐阜方面へ行く安房峠のトンネルが貫通したことや、岐阜を縦断する東海北陸自動車道が開通したことにより格段に近くなった高山ですが、
やはり山間いに囲まれた盆地であることには変わりなく、少し寒さも違うように感じられました。
城址公園にある金森長近像を背に見る高山盆地は今では近代的なビルが建ち並ぶ地方都市となっていますが、かつて江戸期には幕府の直轄領とされていたため、
代官・郡代のための陣屋が置かれて、これが全国でただ一つ現存する「高山陣屋」となって今にその姿を伝えています。
為、幕府相手の商家が発達していくつかの豪商を生み町家建築を作らせました。
その中にあって日下部家と並んで重要文化財となっているのが「吉島家住宅」です。
造り酒屋だったと見え、入り口には杉玉が下がり低い軒先で人を迎えるようになっています。
しかし外観の地味さとは裏腹に内部の土間上には、はっとさせられるような空間が広がっています。天井の張られていない屋根まで見通せる吹抜け空間は、
柱と梁、
小屋束と通し貫が規則的に水平と垂直の格子状の構成になっている上に、
横からの高窓から差し込む光が時々刻々表情を変えて土間や座敷に差し込んできて感動的ですらあります。
棟まで1本で通した大黒柱を中心に幾何学的ともいえる小屋組は、丁寧に鉋で仕上げられ漆が塗られて黒光りしています。素材は松梁の他は桧の材が用いられ
背割れをしているのではないかと思わせるように表面に割れを見ることはできません。アメリカの建築家チャールズ・ムーアがここを訪れた際、
「自分が見たうちでは最高の日本建築」と絶賛したといわれます。
二度の大火で焼失した後、明治40年地元川原町の棟梁・西田伊三郎によって建てられたことが分かっています。
しっかりとした技量と技を感じさせます。
日本建築の古来の構造工法はこういった水平垂直材を用いた貫工法が中心でした。
柱や束の通し貫の穴は楔を打ち込むことで固定され水平力に対抗しています。
今では筋違という斜め材を用いる工法が構造の基準となっていますが、如何せん化粧材としたときの見場の悪さには閉口します。学校の耐震補強をよく目にしますが、
表に現れた斜め材の補強はどう見てもデザイン化されているとは思えません。
昔の匠たちはその美的な配慮もあってこうした水平垂直材を用いたのではないかとも思えてきます。
清水の舞台下の梁組に斜めの筋違が金物で補強されて入っていたらやはり興ざめするのではないでしょうか。
建築学科の学生の頃、この水平や光の扱い方を建築計画や意匠で勉強したことを覚えています。水平線を強調したといわれるフランク・ロイド・ライトの「楽水荘」や、
形や色を変えて光の差し込み方を演出したコルビジェの「ロンシャン教会」、 トップライトの穴から時々刻々変化する光が差し込むローマの「パンテオン」など、 自然を対象とした光や、人間のモジュールと密接な関係にある幾何学が建築のデザインには重要な要素であることを改めて思い出させてくれたのでした。
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