見ごたえのある堂宮に対して少し見足りなかったわけではないのですが、会社の研修旅行は昨年に続いて京都方面となりました。 片道6時間をかけて関ヶ原を越え、湖東方面にある多賀神社を参拝、大津市内に宿をとって翌日は京都大原と東山の南禅寺を廻っての行程でした。
大原にある三千院は高校時の修学旅行以来かと思いましたが、駐車場から、必ず写真を撮る御殿門までの坂道が当時あまり記憶になく、
今回息の切れるくらいの長い距離に感じたのはひとえに体力の差なのでしょうか。御多分に漏れず、門前で写真を撮り40年前の詰襟姿の我が身を思い出していました。
紅葉には少し早い時期でしたが、本堂である「往生極楽院」が木立に囲まれ、深緑に苔の広がる宝石箱のような庭園に浮かぶように立っているのは当時のままでした。
三間四方入母屋、柿葺きの本堂は平安中期に建てられたもので1,000年以上の風雪に耐えてきた貴重なものです。
三尊により千年にわたり人を導くことから三千院と呼ばれたように、本堂の中には国宝の阿弥陀如来の脇に観音、勢至両菩薩が配され、
少し前かがみの姿勢になった「大和座り」で置かれています。
門前には秋の「大原女(おはらめ)まつり」のポスターが貼られていました。鯖街道と共に大原は薪炭の産地でも有名で、当時、藍染筒袖、替え結びの帯、
甲掛・脚絆で白手拭い頭に薪を載せた女人が都へ歩いて売りに行ったという大原女がまつりという形で残されています。
余談ながら、三千院の門跡の乗る車のナンバーは「ろ−3000」になってシャレているとどこかで読んだことがありましたがこれは確認できずじまい。
そして更に鯖街道と高野川を挟んで反対側にあるのが寂光院です。駐車場からこれも長い距離を歩いての山門でしたが、かつて隠遁の場所として扱われた大原の里らしく、
静かな山麓に佇んでいます。
壇ノ浦で滅亡した平家一門の中にあって、平氏の一族を弔うために残されたという建礼門院こと平徳子が晩年隠遁の庵を結んだところして有名です。
京の都へは今でも車で1時間ほどの山間の町である大原は、平安末期の頃は鯖街道や比叡山への中継地であったとは言え、
うら淋しい奥まった山間の山村だったろうと想像されます。侍女3人ほどと暮らした建礼門院の生活は、
かつて高倉天皇の中宮として栄華を極めたころに比べてみじめな暮らしぶりだった云います。
その建礼門院を舅であった後白河法皇が見舞いに訪れたのが大原御行で、寂寥とした離世の地に住まうことを建礼門院が詠じた歌に対して、
「池水に汀(みぎわ)の桜散りしきて 波の花こそ盛りなりけれ」と御製して、たとえ枝から散ったとしても桜花はいま池の水面で満開になっているではないか、
と慰めたと云います。互いに数年の間に起った様々な人生の流転に思いを馳せ察するに余りあるものがあります。
しかし、今の寂光院は当時のものではなく、平成17年に再建された新しいものになっています。
本堂と御本尊の地蔵菩薩立像は残念なことに平成12年に火災により焼失しています。
放火によるものとみられますが、著名な寺院が火災にあったのは近年あまりなく話題になりました。
防火意識の高まりと避雷針や消火設備の充実により建物を火から守る確率は高くなりましたが、人による付け火や放火は防ぎきれない部分があります。
寂光院の他、昭和25年の金閣炎上、同48年の方広寺大仏殿焼失、平成17年の須賀神社、 仁和寺の不審火など、理由はいずれにせよ人による放火や付け火と言われています。以前この稿でも書いたかと思いますが、
室町以前の京都の伽藍が応仁の乱で灰塵に帰したことや、谷中の五重塔が男女の心中により燃やされたように、落雷や地震などの天災による建物の焼失や崩壊よりも、
戦争や放火など「人間の業」による人災での焼失のほうが多かったことを記憶しておかねばなりません。
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