平安時代、京の都人は奥州にずいぶん憧れたらしく、「宮城野(みやぎの)」と聞くだけで秋草の野を思い、萩咲きこぼれるあわれさを思い、
さらにははるかに野を吹きわたる陸奥の風を思ったといわれます。それは奥州藤原三代の平泉の栄華が偲ばれたのか、
坂上田村麻呂を始めとした遠征軍の武士たちの語り部からだったのかは分かりませんが、当時の和歌にも多くの東北へのあこがれが謳われています。
宮城野とは今の仙台平野のことで、ここから少し北へ行った平泉までを含めた一体を指しているようです。
北面の武士から一転妻子を捨てて出家した歌人西行法師もその一人で、全国行脚の中で生涯に二度この平泉の地を訪れています。
最初は西行29歳のころで、歌人能因の足跡をたずねたものでした。
二度目は平治の乱後焼失した東大寺伽藍と大仏再興のため重源上人から依頼されて奥州藤原氏へ金の寄進を求めるために奥州下向したもので西行69歳になっていました。
その時は、 「風になびく 富士のけぶりの空に消えて 行方も知らぬわが思いかな」
という歌で、富士山を眺め我が身の境遇を思いつつ、鎌倉で頼朝と面会しています。
そして平泉に入ってからは中尊寺から北上川越しにみた束稲山(たばしねやま)の山桜がことのほか美しく映ったとみえ、
「ききもせず たはしね山の桜花 吉野の外にかかるべしとは」
の歌が残っています。かつて高野山に草庵を結んでいて、よく吉野の桜を愛でていたのを思い出し、
このみちのくの地にもこんな美しい桜があったとはと感嘆しているのです。 晩年に、 「ねがはくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月の頃」
の名歌を残して、その歌の通り旧暦二月に73歳で亡くなった西行が讃えた束稲山の桜はよほど美しかったのだろうと想像しますが、
残念ながら今京都五山と同じ大文字焼きのあるこの山に山桜はもう自生していません。地元で西行桜を復活させようと植樹運動が行われているようですが、
西行の見た桜を一度は見てみたいものだと思います。
機会あって9月末、平泉中尊寺と毛越寺を久し振りに尋ねることがありました。いっとき世界文化遺産に指定されたころは大変な賑わいだったようですが、
2年たった今は少し人の出足も落ち着いてきたように見えます。
東北人同士で争った「前九年・後三年の役」での多くの犠牲者を弔い仏国土を建設するために清衡公が建てた中尊寺と、
二代基衡が造営した極楽浄土を思わせる毛越寺庭園は黄金産出に支えられたかつての藤原氏の栄華を伝えて余りあります。
西行が見たころの毛越寺は40の堂宇と500もの禅坊が存在したといわれ、西方浄土を思わせる大泉が池と共に、さぞかしきらびやかであったことと思われます。
16世紀までにすべてを焼失し、今はその礎石を見るだけとなっていますが、
本堂だけは平成元年に地元出身の藤島亥治郎博士の設計により平安期の密教建築として優美な形でよみがえっています。
西行没後500年のずっと後年、「奥の細道」で芭蕉がこの地を訪れたのも西行の奥州の旅をなぞることが始まりと言われています。
「五月雨の降り残してや光堂」
「夏草や兵どもが夢の跡」
この有名な芭蕉の句も、藤原氏の栄華盛衰、合戦の鎮魂、奥州への憧憬、西行の陸奥行脚など想いをめぐらして噛みしめるとその背景が見え、
ぐっと臨場感を持って迫ってきますね。
都人が憧れた「宮城野」がかつては東北の「まほろば」であったことは疑いもなく、
豊かな土地であったことから多くの和歌や俳句を生む力にもなってきたことが分かります。
今は萩やすすきの咲き乱れる場所は少なく、代わりに実り豊かな稲穂が仙台平野を黄金色に染めています。
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