連休の一日、被災地の宮城県石巻を訪ねてきました。ここは宮城県の中でも最も被害の大きかった地域となってしまい、
今なお復興の目途が立っていないように見受けられます。多くの犠牲児童を出した大川小学校があったところで、
山に逃げきれずに津波被害にあったことが広く報道されましたが、
もう一つ日和山(ひよりやま)公園の前に位置する門脇小学校というところでは校舎が津波に加えて火災被害まで受けた惨状を呈していますが、
児童たちは裏の日和山へ避難して犠牲者を未然に防ぐことができたといいます。
石巻は江戸初期、伊達政宗によって人工的に作られた湊でした。水量の多い北上川によって洪水氾濫を受けていた不毛の湿原を、
この川の付け替え事業によって流れを石巻に迂回させ肥沃な仙台平野へと変貌させたほか、そこで取れたコメを江戸へ運ぶ一大港運湊としての石巻を出現させました。
政宗の意図をよく汲んでこの大土木事業を差配したのが川村孫兵衛という天才土木家でした。日和山公園の一隅に北上川方向を指さして立っている銅像がその人です。
彼の工事によって出来上がった新田のおかげで、数千の自作農が成立したことを考えると旧仙台藩の中にあって第一級の恩人といわねばなりません。
その雄大な付け替えられた河口の様子をこの日和山公園から見ることができます。
ここには江戸中期には松尾芭蕉が、幕末には吉田松陰が、昭和になっては司馬遼太郎が訪れていて、それぞれ文章を残していて時代の流れが分かります。
芭蕉はその殷賑な石巻港を見て驚き、松陰は取り扱われるコメの石高が70〜80万石に上ると記し、さらに中洲のために河口が浅くなっていることを観察し、
司馬遼太郎は付け替えられた川の流れを見て伊達政宗の人となりを洞察しています。これをみると、
いま石ノ森章太郎漫画館が建つ中瀬公園と呼ばれる中洲が川村孫兵衛の時代より後に作られたことが窺い知れます。
この標高56mほどの高さの小山は今でこそ公園となって石巻港を一望できる観光スポットとなっていますが、かつては全国の湊に「日和山」が存在したように、
海を遠望し、その日の天気や風向きによって船を出すか出さないかの「日和見」をした場所であったといわれています。それは航海の基礎でした。
日和見師という人がいて職業として天気を教えていたとも言われます。公園奥には延喜式にも出てくるという鹿島御児(みこ)神社が鎮守し、
自然、航海安全祈願の祭神としても兼ねたかと思われます。
鹿島、香取の両神宮祖神の御子が命を受けてこの地に到着碇泊し錨を操作した際石を巻きあげたことから石巻という地名の発祥をみたと記されています。
しかし残念なことにこの由緒ある神社も地震による被害が甚大で、今建て替えを余儀なくされています。
かつては湊の防人役として機能した日和山は、3・11の震災のときは門脇小学校の児童の避難場所として機能し子供たちや近隣の防人役となってくれました。
しかし、一望できる石巻湊はそれまでの風光明媚さでなく、津波の爪痕を残す景色へと変貌してしまいました。
公園ではその時の始終をボランティアの方々が語り部として訪れた人に語り継いでいます。
国交省のホームページを見てもまだ石巻の復興計画は途上のようで、現地での復興の槌音はいまだ聞こえて来ていませんでしたが、
人々の行きかう賑わいだけは少しずつ戻ってきていることを実感します。瓦礫と呼ぶには忍びない住宅地跡に、
かつて玄関先に生えていたであろうチューリップの球根が芽吹いて赤い花が二輪、あたかもモノトーンの中の色彩のようにあでやかに咲いているのが、
復興への意思のように思えてなりませんでした。
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