榛名山の南麓で今は高崎市になっている旧倉渕村権田というところに「東善寺(とうぜんじ)」という曹洞宗のお寺があります。
ここは幕末期の幕臣だった小栗上野介忠順(おぐりこうづけのすけただまさ)の菩提寺として歴史好きの小栗ファンの墓参が切れ目なくあることでつとに有名なところで、
四月初め近在へ行った際の道すがら寄ってみることができました。
幕末期に勘定奉行、海軍奉行として徳川幕府を支えていた小栗は、万延元年の遺米使節の一員としてポーハタン号で太平洋を渡り、
アメリカでその言動を高く評価されたことや、江戸城明け渡しを唱える勝海舟に対して最後まで主戦論を唱え、
恭順を示した徳川慶喜の裾を引っ張ってその論を主張したことなどで有名です。
幕府が消滅した後は江戸を去り知行地であった上州権田村に引きこもり隠遁していましたが、
慶応4年4月、関東平野に入った新政府軍はわざわざ山深い権田の地まで分け入り、小栗を捉えて家臣3名と共に斬首するという暴挙に及びます。
一切の申し開きや弁明を聞かず、しかも切腹の名誉も与えず打首にしてしまったのは小栗の存在をおそれた新政府軍の汚点だといわれています。
いっとき、榛名山麓周辺では徳川埋蔵金探しでマスコミが湧き、テレビでも特集番組が立てられ重機で畑地を深く掘り続けるシーンがありました。
あの人たちは今どうしているのか知る由もありませんが、あの騒動の理由とされたのが勘定奉行、
今でいう財務大臣を務めていた小栗がこの地に移る際に幕府の埋蔵金を持ち帰って埋めたとする風説が発端となっています。
当時の幕府の財政事情や小栗の篤実な性格からして荒唐無稽な話と言わざるを得ませんが、それだけ小栗が幕府内で大きな存在感を占めていた証左とも言えます。
小栗は「明治の父」と呼ばれることがあります。幕藩体制がもはや制度疲労を起こして死に体になっていることを早くに悟り、
その後をどうするかを大きな構想力で描いていたといわれます。フランスのような皇帝制を取り入れ将軍家が日本国皇帝か大名会議議長のような存在になり、
それによって大名制度を廃止して中央集権的な郡県制に持って行く、そんな構想だったようです。
そして海軍や海運の創設のために造船所を持たねばならないと考え横須賀にドックを造ります。
「このドックが出来あがった上は、たとえ幕府が滅んでも“土蔵付きの売家”という名誉を残すだろう。」と言ったといわれます。
その後明治の時代になって廃藩置県が行われたことや、横須賀が海軍工廠となり造船技術を生み出す中心的拠点となって、
後年「日露戦争時の日本海海戦で勝利できたのもこのドックのおかげだ」と東郷平八郎が語ったように、
その先見性が小栗をして「明治の父」と呼ばれる理由かと思われます。
東善寺には小栗の墓がある他、本堂隣接の建物内に小栗の往年の活躍を伝える資料室が備えられその業績を顕彰しています。
1860年ころのアメリカに渡り、ブロードウェイでの歓迎パレードを受けた後、日米修好通商条約の不平等な通貨の交換比率の見直し交渉を主導。
ワシントンの海軍工廠を見学してその技術の差を目の当たりにし、記念にネジを持ち帰るなどして工業技術の振興を痛感します。
のち外国奉行に就任し株式会社としての商社を初めて興したり、日本初の本格的ホテルである築地ホテル館を発案主導したりと、
経綸家としても実務家としても秀でていた小栗をその後の国家建設のために用いず、逆にその存在を恐れて抹殺した新政府軍の慧眼のなさを今更のように憂います。
斬首された場所は高崎市内から抜けた国道406号が北は中之条へ、西は軽井沢方面に道が分かれる権田の辻の近くにあり、
そばを流れる烏川の水沼河原だとされています。その場所には石碑が立てられ「幕臣小栗上野介、罪なくして斬らる」と刻まれています。
墓の脇には小栗が神田駿河台の下屋敷で愛でていたとされる鉢植えの椿が今も残されていて樹高3mくらいに成長しています。
別名「小栗椿」と呼ばれている崑崙黒(こんろんこく)という黒椿だそうですが、行ったちょうどその日が開花日だったとのことで、
南側に一輪赤黒い花を見ることができました。42歳で無実の罪で逝った小栗の無念さを晴らすように、毎年春になると八重の名花を咲かせているのだそうです。
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