久しぶりに上野へ出て国立博物館平成館で開催されていた「王羲之(おうぎし)」展に足を運んでみました。 最終日とあって早めに会場へ行ったつもりでしたが、開場時間前にもかかわらず長蛇の列をなしているのには驚きました。
中国四世紀の東晋時代に活躍した王羲之は、書の分野で従来の書法を飛躍的に高めたことで有名で、東アジアの漢字文化圏に大きな影響を与え、
現在もなお「書聖」として貴ばれています。歴代の皇帝に愛好され、
中でも神格化に拍車をかけたのが唐の太宗皇帝だと言われ王羲之信仰と呼ばれるような状況を形作っていきました。
現存する最古の文字は甲骨文字と教えられてきました。それ以前にも文字を想起させる符号があったようですが、 言語を表記し、その内容を保存し第三者に伝える文字は一定の体系と数量が必要となり、その意味で甲骨文が最古の文字とされるようです。
これがなんと紀元前14世紀まで遡るといいますから、今から3,400年前ということになり、日本では暗黒の縄文時代真っ只中といったところでしょうか。その後書体は少しずつ改良が加えられていき、秦の始皇帝の時代に中国統一と共に文字も統一され篆書(てんしょ)体が生まれます。 左右対称の曲線を多用した荘重で美しい文字体ですが、書くのに時間が掛かりました。
そこで画を少し省略し画一化した隷書(れいしょ)体が編み出され、曲線が少なくなり横画は水平、右払いの波磔(たく)が特徴的になっていきます。 これらはあくまで公式文書体であって、実用としての文字体としてはこの後、早書きの草書(そうしょ)や行書(ぎょうしょ)が生まれていきます。この頃中国文明の大発明と言われる紙が流布し始め、人々は美しい草書の揮毫に没頭したと言われます。
文字体はその後魏の時代に移り、いよいよ今でも使われている楷書(かいしよ)の時代に移っていきます。 この書体は公用・実用を善くした幅広い表現力を備えているといわれ、王羲之はそんな時代に生きた人でした。
当時最新モードであった生まれたばかりの楷書を大きく進化させる役目を歴史的に担っていくことになります。
王羲之の苦闘から300年を経て唐初時代に楷書は完成したと言われ、
その後現在まで新しい書体が生まれなかったことからもその書体の完成度の高さが窺い知れます。
日本はかつて文字を持たない国でした。そこに三〜四世紀頃中国の「漢字」を文字として輸入し、
最初は音(おん)だけを合わせる表音文字として当て字の万葉仮名文を使っていました。その後訓読みという離れ業を行います。
「山」という漢字を「サン」という中国音として受け入れる他にやまとことばの「やま」とも読ませるという、
意味を持った表意文字として使っていくことになります。
私たちが小学生の時に一つの漢字を音読みと訓読みの2通りの読み方で覚えていかなければならない苦労がここから始まります。
そして漢字は知っていても読めないという、世界的に見ても極めて稀な現象が起こることになります。
その後実用と簡略を目指して漢字をくずしていった「カタカナ」と「ひらがな」を生んでいきますが、
考えると私たち日本人は4種類の読み書きを覚えていることになるのですね。
その元となった漢字は意味を持った文字として「書道」という芸術領域まで持つようになりました。力強く、端正な文字であればそれだけで価値を持ち、 掛け軸として飾られるようになったのです。その頂点に立つのが王羲之と言われます。
ところが不思議なことに彼の真跡・肉筆と呼ばれるものは現存していないというのです。惜しむらくは彼を信奉し、
その墨蹟を蒐集した太宗皇帝がそれらを自分の陵墓に一緒に埋葬してしまったり、戦火にまみれて失ったことによります。
残されているのは唐時代の模本と拓本のみで、これらにより彼の書の美しさが今に伝えられているのです。
門外漢の自分などはその一字一字の筆使いをただ感心しながら見ているばかりでしたが、
改めて漢字のもつ不思議な魅力に少なからずの感動を覚えました。
詩人の谷川俊太郎さんに「世代」という詩があります。
【 漢字はだまっている カタカナはだまっていない カタカナは幼く明るく叫びをあげる アカサタナハマヤラワ
漢字はだまっている ひらがなはだまっていない ひらがなはしとやかに囁きかける いろはにほへとちりぬるを … 】
そうですね、漢字は意味を持って一字でそのまま床の間にデンと置物として置いてもオブジェになるように見えますね。
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