寺院建築などに使われる虹梁(こうりょう)や懸魚(げぎょ)という部材などには彫刻が施されることが多いですが、
これを彫るのは一般的には彫刻師と呼ばれる職方の分野です。これにもいろいろな時代様式の他に様々な流派があるとされていますが、
当社がお願いしている彫刻師のなかに埼玉県秩父市に住んでいる方がいて、よくそこを訪れます。
秩父は武甲山や両神山などの名峰に四方を囲まれた盆地で、セメント産業や伝統的な夜祭、荒川上流の長瀞の渓谷美などで有名ですが、
意外と知られていないのが奈良時代初期に日本初の通貨として使われて、
教科書にも必ず出てきた「和同開珎(わどうかいちん)」の地金の銅を産出した場所だということです。
秩父市黒谷地区という所にその「和銅遺跡」というのが残されていて、彫刻師への帰り道寄ってみました。
秩父が歴史に初めて登場するのが奈良時代の歴史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」だと言われ、
慶雲年間元明天皇の時代に秩父で産出された「ニキアカガネ」と呼ばれた自然銅が朝廷に献上されたことが記されています。
「ニキ」とは「熟」の意で、熟した赤金=純銅の意味かと思われます。銅は銅鉱石を精錬して生産するのが一般的ですが、
この秩父断層に現れた銅は精錬を要しない純度が100%に近い自然銅だというのです。断層から自然に地上に露出したものを里人が見つけ、
それをこの地に多く住んでいた帰化人が銅と識別したとされ、その断層部分の露天掘りが今も見ることができます。
世はちょうど奈良に平城京が建設されている時期で、和製の銅の発見に朝廷は歓喜します。わざわざ元号を慶雲から和銅に改元したり、
罪人への大赦や武蔵国の課税免除まで行ない、唐の「開元通宝」にならい日本最初の通貨「和同開珎」が誕生します。
狩猟採集時代には山の恵みに支えられ豊かであった秩父には1万年前から人が住んでいたと言われ、多くの縄文期の遺跡が遺されていますが、
それでも隔離された盆地の秩父という鄙(ひな)で、1,300年前の西暦700年頃、すでに帰化人が住んで、アカガネを銅と識別して、
その価値を朝廷に情報提供していたことや、
発見だけでなく露天掘りして洗銅した技術、その銅を幾日も掛けて奈良の都に牛馬で運んでいたという事実に軽いショックを覚えます。
当地には「羊太夫(ひつじだゆう)の伝説」というのがあって、不思議な羽をもつ家来の助けで、
空飛ぶ鳥よりも早く黒谷の和銅を奈良まで毎日送り続けた男の話が残されていますが、
当時からこの地に古代技術やそれに見合う文化精神が育まれていたことが窺い知れます。
この付近では産出しない黒曜石が発掘されたり、逆に秩父長瀞産の緑泥片岩で作られた板碑が能登輪島に現存したりと、
雁坂峠や志賀坂峠などの山越筋、更には十文字峠を通じて千曲川源流へと甲府や信濃に物流が行きかっていたことが想像され、
昔人の逞しさとしたたかさを感じさせられます。
近くには神の恵みである和銅を神宝として祀った聖(ひじり)神社が和銅元年に創建され今に残されています。
ここにも脇に大きな和同開珎のレプリカが置かれていて、手を合わせて拝むとなんだかお金持ちになれそうな気分にさせられますね。
その後の秩父地方は長らく西国に組みしない在郷武士たちの時代が長く続き、鎌倉時代になって頼朝の家臣団として畠山重忠の活躍の時代を迎えます。
戦国期になって上杉氏、武田氏、後北条氏の各支配を受け、下って江戸期には徳川直轄地として幕末まで続きます。
山岳信仰から修験道の広がりも相まって秩父往還は活況であったのでしょうか、自由民権の思想ももたらされ、
明治17年専制政府打倒を目指した農民が武装蜂起した「秩父事件」が起こります。
こんな山奥の一見穏やかな里山でこのような革命思想が胚胎した理由は人文的にも明らかにされているわけではないようです。
かつてこの稿でも触れた小説「夜明け前」で、馬籠という山深い木曽谷の宿場でありながら、
行き交う人の情報により京や江戸の維新の状況が手に取るように分かっていたのと同じように、山は人や物を遮断する障壁のようでもあるし、
峠を通して文物を移入するための通路でもあったのかも知れません。峠を越えてもたらされた思想が秩父という盆地世界で発酵して先鋭化したのが秩父事件とするなら、
そのDNAは遠く奈良までアカガネを運んだ羊太夫の伝説に由来するのではないかと、遙かな山並を見ながら思いを巡らせました。
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