過日、OBとして青年会議所の現役メンバーたちとの交流事業と称するイベントに参加してきました。
内容は「太平記」の新田義貞よろしく太田市内にある生品神社から旗揚げ出陣して鎌倉を目指すというルートを再現しながらの珍道中でした。
後醍醐帝による鎌倉幕府討幕の勅命に新田義貞が呼応し旗揚げしたのが元弘3年(1333年)の5月8日、この太田市新田地区にある生品神社でした。
ここで義貞は鎌倉方向に鏑矢(かぶらや)を打ち放し出陣していったことになっています。
「小手指河原の戦い」や「稲村ケ崎の太刀投げ」などの伝説を生みながら鎌倉の地で北条軍と大激戦の末討幕を遂げます。
この生品神社は昭和9年に建武の中興6百年を記念して史跡指定。神社境内には旗揚げ塚、床几塚があり、
拝殿の前には義貞が旗揚げの際に軍旗を掲げたと伝えられるクヌギの木が保存されています。今でも義貞挙兵の故事に倣い、
毎年5月8日には氏子、地元小学生により鏑矢祭がおこなわれています。
郷土史家の茂木先生に鏑矢打ち放しの実技指南をしていただきながら出陣の盃を上げて一行はバスにて一路鎌倉を目指しました。
義貞が生品神社を出立してから14日後の22日、北条高時らを鎌倉・東勝寺に追い詰め150年続いた鎌倉幕府は滅亡します。
鎌倉は北3方を山に囲まれ開いた南部分が由比ガ浜の海という要害の地です。海側から攻め入った義貞軍とは文字通りの大激戦となり、
累々たる屍が横たわったと言われています。今でも由比ガ浜や鎌倉女学院の校庭から白い砂のように見えるものの多くが人骨だとの話しもあります。
我が一行は昔半月掛かった道程をバスにて半日ほどで鎌倉入りを無事果たし、
結婚式や七五三でごった返している鶴岡八幡宮に詣でて義貞の論功を讃えたのでした。
かつて頼朝がこの先祖ゆかりの鎌倉の地に入って最初にやったことは海岸近くにあった八幡宮を新たに祀り、幕府の中心となる「役所」づくりを急ぐことでした。
古い八幡宮を新たに山を削ったところへ移して若宮とし、平安京の朱雀大路を模した一筋の大路を「若宮大路」と呼びました。
今の鶴岡八幡宮の建物は江戸時代のもので、頼朝の頃がどのくらいの規模だったかは想像するしかありませんが、
当時武蔵のこの辺りの地は「深草(ふかくさ)」と呼ばれほどに草深く、造営のための宮大工が近くにいませんでした。
「深草」の対語である浅草には浅草寺のための宮大工がおり、それらが呼ばれたと言われます。
工事は早かったようで頼朝が入って1年後の養和元年7月には上棟式が行われたことが分かっています。
頼朝がこの時の工匠に対し馬を与えようとし、義経に向かって「馬を引け」と命じたのは有名な話です。
家人のやることを弟にやらせたことで義経は色めき立ちますが、
鎌倉幕府が多くの豪族たちに支えられての政権であったがために身内を引き立てるわけにはいかないという意味を義経は生涯理解できなかったろうと言われています。
話は前後しますが、義貞はその後も時代のうねりの中で合戦に明け暮れ、最後は越前の燈明寺畷で討ち死にしたとされています。
3年前にその地を訪れたことがありますが、福井の方々により首塚史跡として手厚く葬られてあるほか、義貞公を祀った藤島神社などもありました。
その縁あって今でも太田市の新田地区と福井市の交流が持たれたりもしています。
私事になりますが、親戚筋によれば赤石家の先祖は義貞の弟だった脇屋義助の家人だったらしく、この時の鎌倉攻めに生品神社から一緒に出陣したというのです。
ところが武蔵の国に入ったあたりで腹痛を起こして一陣から離脱。
その後地元には面目なく帰れないで利根川沿いの武州・妻沼の地に定住するようになったと聞かされました。
よりによって腹痛とは嘘か誠か計りかねますが、もしそうだとしたら、今回の鎌倉行きで680年ぶりに先祖の無念を晴らしたことになりますかね〜(笑)。
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