恒例の会社研修で今年は京都へと大遠征をしてみました。
二年前に近江湖東三山の一つ西明寺を訪れた際、京都まであと三十分ほどだと聞いて次の機会には是非京都へと思っての計画でした。
第二東名高速を初めて走り名古屋から新名神高速で行くこと7時間、無事京都へ着くことができました。
京都には初めてか修学旅行以来という従業員も多かったので、やはり金閣寺、東寺、東本願寺そして清水寺を中心に見て行きました。
紅葉には1ヶ月ほど早い時期でしたが、それでも修学旅行生の他多くの外国人観光客などでの賑わいは相変わらずで、
京都人気の根強さを感じずにはいられませんでした。
長男が清水寺で解体修理に携わっている関係からその工事状況を見せてもらうことができたのは僥倖でした。
舞台裏の「朝倉堂」は解体修復が大分進んで、屋根野地下地が終わる段階まで来ています。
また清水寺貫主が毎年その年の一字を揮毫する場所の「奥之院」では屋根材が外され小屋組の解体が進行中の状況を見せてもらうことができました。
国宝級の改修現場の最前線を見られたのは若い大工たちには参考になった点が多かったと思います。
また素屋根を鉄骨でなく旧来の足場丸太を用いてトラス状に組んで掛けているのはその技術を後世に伝えるためと聞いて、
合理性だけに流れない京都の伝統技術に対するものの考え方に触れたような気がしました。
夜の祇園の酔いを醒ますわけでもなかったのですが、翌早朝出発前に旅館のそばにある「三十三間堂」に一人散歩がてら寄ってきました。
この弓道で有名な国宝には一度来たことがあったかどうか定かではないのですが、和様の入母屋・本瓦葺きの東西長120m余の長さを持つ、
木造建築では世界最長の本堂には改めて圧倒されます。創建はあの後白河法皇で、平清盛に銘じて1164年に作られました。
創建時には五重の塔や不動堂などもあったようですがその後の大火で焼失し、現在のものは1266年の鎌倉期に再建されたものと言われますが、
それでも750年経っていることに深く感動を覚えます。
正式には「蓮華王院」という名称ですが、長い方に三十三間あることから通称「三十三間堂」と呼ばれます。
この場合「間」は柱間のことを表していますが、実際は外観正面の柱間を数えると三十五間になっていることに気づかされます。
これは千手観音が納められている身舎部分が三十三間で、
その周りにぐるりと一間の庇回廊が巡っているため外観が二間余分に足され三十五間に見えてくることによります。
なんと言っても中に入っての国宝「中尊・千手観音坐像」とそれを取り囲む千体の千手観音立像のお姿が圧巻で、
つい手を合わさずにはおれない吸引力を持っています。
よくみるとすべての像が頭部に11の顔、両脇に40本もの手を持っています。
1本の手が25種類の世界で救いの働きをすることから40×25で「千手」を表しているとされています。
時に世は仏教の力が衰えると言われた末法思想の時代。
いろいろな政治や社会不安を浄土思想で救いたいと願った王権の姿勢が伝わってきます。
(一説に後白河院の頭痛の快癒祈願という個人的発願だったという説もありますが。)
中尊と立像の何体かは運慶・快慶の慶派の作であるとされ、中尊坐像は運慶の長男湛慶(たんけい)八十二歳の時の名作とされているものです。
桧寄木造りに漆箔が施され、均整が保たれた張りのあるお顔には温雅な慈悲さえ感じさせられます。
この千体の観音像は階段状に配置され仰いだ角度のまま一人で自然に一つ残らず拝めるように計算されているそうで、
千体の中には「会いたいと願う人の顔が必ずある」という言い伝えがあるそうです。
はて、自分は今誰と会いたいか? 悲しいかな中々浮かばないで長考するうちに出発の時間と相成りました。
|