業界の研修視察があって外房にある安房鴨川を訪れました。海なし県の群馬県に住んでいると広い太平洋を望めるのは何とも爽快な気分になります。
ただ、学生時代や子供が小さい時などに海水浴で何回か訪れたことはありましたが、東日本大震災を経験してからというもの、
なんとなく海に対する印象も少し変わったことは否めません。この辺も津波の影響が少しはあったはずだし、
美しい自然がいつ牙をむけるかわからない危うさを覚えるのもまた事実です。
鴨川の近くには日蓮上人生誕の地があって、その名も誕生寺という古刹がありますが今回は時間の関係で寄らずに来ました。
日蓮の活躍した時代は鎌倉時代後期でしたが、そのころはすでに江戸も埋め立てが進んでいて、鎌倉へは江戸湾沿岸をつたっていったことと思われます。
よく関八州と言われ、
武蔵・相模・上野・下野・常陸・安房・上総・下総の八州が構成国とされてきました。
現在の県名からすると、東京と埼玉が武蔵となって、千葉県が三つの国に分かれていたことになります。
上下や前後の名前が付く古い国名は京の都から見て近いところが上か前、
遠いところが下か後となっているのが通例です。
群馬と栃木は東山道を通って群馬の方が京都に近いので上野、北陸三国も西から越前・越中・越後となります。
ところが前から不思議に思っていたことなのですが千葉の上総、下総だけは東京寄りの西が下総でその先が上総・安房となっていてこれと矛盾します。
調べてみるとどうやら奈良時代頃までの時代は東海道が今の東京を通るコースでなく、箱根から鎌倉を抜けて三浦半島に出て、
浦賀・走水付近から東京湾口を船で横断して房総半島に上陸し、
安房→上総→下総を通って常陸へ北上する古東海道と呼ばれるコースがあったようなのです。
古く古事記や日本書紀の日本武尊東征伝説の中にうたいあげられている走水の渡海や、
海神の怒りをなだめるための弟橘姫入水の物語などとも一致すると言われます。
そのころの江戸近辺はどんなだったか。おそらく古利根川、荒川、
渡良瀬川などが湾に直接流れ込んで一面にアシ・マコモの類が密生している一大低湿地帯や沼沢地が広がっていただろうと思われます。
今日のように川が分かれて流れるようになったのは江戸を水害から守るため江戸幕府によって流路付け替えの大工事が行われた実に十七世紀以降のことになります。
そんな一大湿地帯を横切るよりも狭くくびれた東京湾の浦賀水道を横断する方がより容易な交通路だったのは想像に難くありません。
そう思うと橋と海底トンネルで川崎と木更津を結んでいる東京湾アクアラインは昔の古東海道を復元したと見ることもできます。
一時無駄な公共事業の筆頭に挙げられていたこの「現代の古東海道ルート」のおかげで、東京から房総方面への交通アクセスは格段に便利になりました。
午前中西の高尾山薬王院を見学したのち高速を使って安房鴨川の宿へなどという、行ったり来たりのコースはかつて考えられないことでした。
そう思いながら海ほたるの展望台から対岸を望むと、古くこの海峡を小舟で渡った古武士たちに思いを馳せ、ちょっと違った情景に見えてきますね。
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