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赤石建設株式会社 一級建築士事務所
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平成24年8月


 「群馬県は鶴舞う形」と言われますが、その頭の方に位置するところに明和町という場所があります。 東北自動車道館林インターからほど近いところです。その明和町で今古民家の改修工事を進めていますが、 その現場に行く途上に黒御影石に刻まれた「川俣事件碑」が建っています。
 この一帯は利根川と渡良瀬川の両大河が合流するところに近く、昔から洪水の多い地域としても知られていて、 埼玉、茨城、栃木、群馬の4県が重なり合っているところでもあります。 ここで明治33年2月、「東京大挙押出し」と呼ばれる農民の今でいう大規模なデモがあり、それを阻止しようとした警官隊と衝突を起こし多くの負傷者を出したのが、 明治期の大規模な集会・言論弾圧事件として有名な川俣事件でした。
 原因は日本最初の公害事件と言われる足尾銅山鉱毒の被害に悩まされた渡良瀬川流域の被害農民の中央政府への抗議行動でした。 米持参で歩いて東京まで向かって農商務大臣と面会し請願をするというこの「押出し」は、 川俣事件の時が最初の押出しではなく明治30年に第1回目の押出しが行われてから4回目の抗議行動でした。
 ただこの時のものは規模が大きく、一説に1万2千人の抗議農民が集結したと言われています。当時は利根川にはほとんど橋が掛けられておらず、 川を渡れる場所が川俣の渡ししかなかったためこの地での衝突になったと思われます。60余名が逮捕拘束された他、 多くの負傷者は近くの真如寺に収容され同情的な地元住民に厚く手当・看護されたといいます。 
 人権やデモなどの権利が保障されていなかった当時、これほどの行動に出ざるを得なかったほどに鉱毒事件は深刻でした。 銅の精錬時に発生する亜硫酸ガス、排水に含まれる銅イオンなどの鉱毒により、足尾の山々は禿山となり保水力を失い土壌が流出、 近隣数村が廃村へと追い込まれます。渡良瀬川中流域では魚の大量死が発生、洪水により堆積した汚染土壌のため稲の立ち枯れも起こります。 特に渡良瀬川から農業用水を直接取水していた太田市毛里田地区の被害は昭和に入っても続き、多くのカドミウム被害が出ています。
 重い腰を上げた政府は発生元の足尾精錬所の操業停止でなく洪水が原因として栃木県谷中村に遊水地を設けて問題をすり替えました。 いま広がる渡良瀬遊水地はこの時できたもので、東京ドームの700倍という広大な葦が生い茂るこの下に旧谷中村が埋まっています。 かの田中正造の献身的な尽力にもかかわらず強引な強制破壊が行われ旧谷中村民は各所に移住し、 一部は北海道佐呂間町にまで移り「栃木」という地名を現地に付けています。
 その足尾銅山の歴史は古く、江戸時代初期にはすでに採掘が始められていたようです。
 一時廃坑状態になりますが、明治以降民間に払い下げられてから大鉱脈が発見され、日本最大の銅産地となり明治期の主要輸出品になっていきます。 劣悪な労働条件のなかで江戸期には無宿人などが駆り出され、戦前は中国人の強制連行も行われ働かされていました。悲しい歴史が重くのしかかってきます。
 地域住民の公害被害に目をつむり、富国強兵の名の下にその生産を止めることができなかった政府の判断は、 今大きな反対デモが行われている反原発の運動の対応とどこか類似点を見るようです。
 過日足尾銅山に足を延ばしてみました。旧足尾町も今は日光市に合併されて往時の殷賑さは失われていますが、 近年足尾周辺の植林緑化運動により松木峡谷近くの川上には砂防ダムが設けられ、かつては禿山だった周囲の山に少しずつ緑が戻ってきているのが分かります。
 延べ長さ千数百キロ、東京〜博多間の距離と言われる坑道も今は見学ルートとなってかつての採掘の様子を偲ぶばかりですが、  エリアの一角に江戸時代の鋳銅銭に関する資料館があり、お金に関する面白い展示があって勉強になります。
いくつかうんちくを引いてみます。
 「
びた一文」……戦国末期混乱状態にあった銅銭貨幣は善銭と悪銭に分けられ、鋳造の悪い悪銭を金偏に悪を当てて鐚(びた)と呼び、 江戸時代には銭形平次の投げた寛永通宝の1文銭を鐚銭と呼んだことから来た言葉。
 「
さんぴん」……1年間の給料が3両1人扶持の侍を、三と一をとって「三一(さんぴん)侍」と呼んだことから、 身分の低い侍や家来を「さんぴん」と呼んだとのこと。当時一人扶持は一日玄米五合だったとか。
 「
おあし」……お金のことをおあしと呼ぶことがありますが、足袋の文数を表す基準となった寛永通宝の一文銭で足を測ったからという説、 お金は足が生えたように出ていくからという説、寛永通宝には裏に足の字が刻印され「足字銭」と呼ばれたからという説があるようです。などなど。
 紅葉の時期にでも渡良瀬渓谷鉄道に乗って足尾へ足を延ばしてみるのも一興かも。






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