連休の一日、足を延ばして富山・岐阜の県境にある「五箇山集落」に行ってきました。
白川郷と共に合掌造りで有名なところで平成7年世界文化遺産に指定されました。
豪雪地帯で知られ、深い山間の地として数百年にわたって人の出入りを拒んできた地域です。
そのため独特の文化を育むことになり家の造りも合掌造りという雪に対して傾斜60度の三角形屋根を持つに至ります。
五箇山はかつて五箇谷間(やま)と言われ、庄川を中心に五つの谷間にあることから付けられたといいます。
相倉(あいのくら)地区と菅沼地区の二つの集落があり、相倉地区の方が40軒と大きい集落になっています。
何といっても縄文以来人が住み続け、分かっているだけでも鎌倉時代以降数百年にわたって自給自足を続けてきたことに驚かされます。
この地区の合掌造りは、建築的にみると主に切妻妻入り形式となっていて、白川郷の平入りの形式と異なっています。
妻の端部も破風がなく蓑甲納めのように丸くなっているのが特徴的です。養蚕のための蚕室を2階に持つ必要があったためここの合掌造りは吹抜けになっておらず、
1階の住まいの軸組の上に床を張って載せられたような形式になっています。板壁や柱には鉋で削られた部分がなく、
槍鉋や手斧のような中世的な大工道具で削られています。今使われている鉋は台鉋と呼ばれ中世後期の発明と言われ、
この道具ほど木造建築の進歩に貢献したものもまれだと言われています。
それがここ五箇山では近世まで使われていたことに文化的孤立性がいかに濃いかが分かります。
おもな産業といえば養蚕と塩硝(煙硝)、紙漉きの三つで、米が取れない地域であったことから塩硝を持って年貢とされてきました。おそらく、
長い間わずかの畑作の他は縄文のような狩猟採集の生活が続いたと思われます。人里離れた地のため江戸時代は加賀藩の流刑地とされ、
明治に入るまで200人ほどの政治犯が流されたとも言われています。桑を栽培して蚕を飼い、その蚕の糞を利用して塩硝が作られました。
塩硝は火縄銃の火薬の原料となるもので、秘境であったことから加賀藩の秘密製造基地とされた歴史を持つようです。
今はチリあたりからの輸入に頼っているそうですが、この塩硝の製造工程は手が込んでいて恐ろしく時間の掛かるものです。
塩硝土と呼ばれる土壌を作るのに尿素を含んだ蚕の糞や鶏糞を使って5〜6年もの長い期間放置発酵させると言います。
これに灰汁を加えてから乾燥させると灰汁煮塩硝と呼ばれるものができ硫黄と木炭を混合して黒色火薬となるそうです。
科学の知識も微生物の知識もない400年前の時代にどのようにしてこんな方法が編み出されたか想像もつきませんが、
ただ言えるのはここがかつて一向宗の拠点だったことで、中央から宗派を通じて人的な派遣がされたことが想像されます。
この集落にある寺院が同じ合掌造りで作られながらも、本願寺を彷彿させる真宗的な造りを持っていることにもその足跡が見て取れます。
立山の雪解け水から端を発した庄川の早い川の流れに囲まれて、かつては人を寄せ付けなかったこの五箇山の地も、
今は北陸自動車道を利用すれば砺波からトンネルを抜けて40分ほどで来られるようになっています。
見下ろせる場所からずっと眺めていると、今も実際に生活をされている方々がいることも合わせて、
ここがかつての日本の原風景だと言われる理由が分かってくるような郷愁にかられます。
見ながら日本設計の池田武邦氏の近著「二十一世紀は江戸に学べ」を思い浮かべていました。氏はその中で、
二百六十年の鎖国政策を続けた江戸封建社会は二十一世紀の全人類が目指すべき持続可能な循環型社会の理想郷であったと述べています。
「戦争のない平和を享受し、徹底した有機農法で、
国外からエネルギーはもちろん資源も食料も輸入することなく日本国内の自然の恵みのみで何世代にもわたって
約三千万人の人々を支える生活文化を見事に完成していたのである。その生活文化は欲望を適切に抑制する控えた精神文化に支えられたものであった。」と言い、
その根底には「日本古来から伝承されてきた自然を畏敬する心が自然に対する恐れを生み、行いを慎む習慣が身に付いていたことを忘れてはならない」と結んでいます。
少し登った夢の平から見下ろした砺波平野の散居村の情景も、家の周囲に田んぼと屋敷林を持つ自立型の日本の風景として強い印象を持つものでした。
江戸時代に学ぶ環境への顧慮が今必要なことを実感させられる一日となりました。
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