3・11の東北大震災で津波の被害により壊滅状態になってしまった岩手県宮古市の田老地区に視察に行く機会を得て行ってきました。
盛岡から東へ山田線で2時間余かかる三陸海岸にある本州最東端のまちと言われ、
近くには観光名所として名高い浄土ヶ浜があります。
同じ宮古地区でも特にその被害が多かったことでメディアに取りあげられる機会が多かったためご存知の方も多いと思います。
すでに震災から9か月近くが経とうとしていた時期ですが、土地の多くが枯れた草木に覆われていて基礎部分のコンクリートがなければ、
そこに町並みが存在したことが嘘のように感じられる状態に虚脱感を覚えずにはいられませんでした。
田老地区はこれまでにも江戸初期の慶長津波、明治29年の明治三陸津波、
そして昭和8年の昭和三陸津波で多くの犠牲者を出してきました。
その歴史的な度重なる津波被害に学習して、足かけ24年の歳月をかけ、世界に冠たる海面高10m、総延長2.4Kmの大防潮堤を持つことになります。
その街並みの都市計画も道路が碁盤の目状に整備され、各道路の延長先がすべて北の山側へ避難誘導できるような放射状の道抜けになってもいました。
そのため昭和35年のチリ地震津波では田老地区だけは被害を受けずに済んだと言われています。
行ってみるとその大防潮堤は人の背丈をはるかに上回り、
建物の3階以上の高さで町と海岸線をX字状に区分した万里の長城のような要塞に見えます。
しかし今回の津波ではこの自慢の防潮堤が東側500mにわたって一瞬で倒壊し、市街中心部に津波が入り込んでしまいました。
目撃者の証言から津波の高さは防潮堤の倍はあったとされ、人口4,434人のうち200人近い死者・行方不明者を出す結果となりました。
その中には、防潮堤への過度の信頼から、堤の上から津波を見物していた人や、消防団員の水門閉鎖後の見回り等安心感からの逃げ遅れも指摘されています。
その津波の破壊力がどのくらい凄まじかったか。
写真のように防潮堤上の縁石ブロックのコンクリートが鉄筋ごと破断して流されたり、木造土台が割裂したり、
鉄骨造の観光ホテルが2階部分まで骨組状態となってしまっている状況から、専門家はおよそ100t近い水平力が加わったと推測しています。
建築基準法で想定されている風圧力の4.2倍の力です。この観光ホテルも先に壁部分が剥がされて流された結果、
受ける水平力が柱のみとなったために残ったと思われます。
近くの浄土ヶ浜も被災し、昨年リニューアルしたばかりのレストハウスも津波をかぶり休業状態でした。
人知を超える想定以上の津波だったことは分かりますが、それを予期できなかった地震学、建築構造学界は無力感と共に批判を受けざるを得ないと思われますが、
社会インフラは社会のコンセンサスを得ながらの産物でもあります。財政が厳しいなか、今後どこまでの防災設備を持つのかは国民個人の問題として提起されています。
復興計画は途上ですが、田老地区の8割以上の住民が市街の高地移転に賛同していると言われています。 さいわい少し高台にある小学校は被害を免れ活動を再開しています。仮設住居地域は少し遠方となっていますが、日曜日のこの日、子供たちのサッカーに興じる歓声が聞こえてきていました。
港にも少ないながらも漁船が出入りしていて人が行き来しています。そんな光景を見ながら支援を続けることとの大事さと共に、 「この田老地区は絶対に復興する!」そう確信して帰路に着いたのでした。
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