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 この辺ではニシンという魚は普段あまり食卓に並ぶことは稀ですが、たまにソバにつくことがあります。 魚本体より卵巣のカズノコの方が正月料理などに使われるでしょうか。
 かつてそのニシンの大漁に湧き、それがもたらす莫大な利益によって繁栄した町が北海道の小樽でした。 ニシン漁は江戸時代より盛んにおこなわれて、明治期に最盛期を迎えたと言われます。ニシンはふつう鰊と書きますが江戸期は「鯡」とも書き、 「魚に非ず」と読まれていました。松前藩では米が取れなかったため、納税や俸禄などの経済基盤がニシンによって行われていたため、そう呼ばれていたようです。
 それほどに取れました。産卵期がくると小樽の湾がニシンの精子で白く濁ったそうで、その最盛期の明治27年には最高の97万トンという漁獲があったようです。 ざっと今の価格にして300億円くらいになると言われます。この頃のニシンは多くが肥料として内地へ出されていました。 大窯で煮た後、圧搾して魚油を搾り取ったものを乾燥させて「〆粕(しめかす)」として、桑栽培などの肥料としていました。
 「一網千両、万両」といわれたこの鰊漁によって財を成した網元が小樽に多数誕生します。 その中の大網元であった青山家が大正6年から6年余りの歳月を掛けて建てた別荘が旧青山別邸です。
 北前船で遠く山形酒田より欅や瓦材が運ばれ、贅を尽くした仕上がりになっています。 縁のあった酒田の大富豪「本間家」に勝るとも劣らないものをつくろうとしたようで、大工職人も酒田から斎藤子之助という棟梁が呼ばれたと記録にあります。
 双翼の入母屋の外観を持ち、多雪地帯としては珍しい瓦葺としています。内部に特に贅を尽くした跡がうかがえ、 格縁や鴨居類には春慶塗が施され、書院の紫檀・黒檀・白壇、狩野派画家の襖絵と引手の七宝焼き、写真のような階段の玉杢の欅材など贅の限りを尽くしています。
 庭も出色で三種類の様式で建物外周を囲っています。
 当時新宿の伊勢丹デパートの建築費が50万円ほどかかったそうですが、この青山別邸はこの大きさで31万円だったと言われています。 少し成金的絢爛さが気になるところはありますが、いずれにしても当時の人の目にはまばゆく映ったことと思われます。 今は国の有形文化財に指定され、小樽貴賓館として開示されています。
 しかし、ニシンの大漁も明治期を境に減少していき、昭和に入ると300トンほどしか取れなくなり、昭和33年以降ニシンは全く姿を消してしまいました。
 乱獲とも、森林伐採とも、海洋環境の変化とも言われましたが、その原因は定かではないようです。
 近年、留萌沖で久しぶりに群来(くき)と呼ばれるニシンの群生が確認できたとのニュースもあり、すこし安心したりもします。
 夏の終わりでしたが、この小樽に出向く機会がありました。天狗山から見下ろす小樽の街は人口13万の都市で、 その祝津(しゅくつ)と呼ばれる入り江は、日本海に面した天然の漁場のように見えます。
 30pほどのニシンという魚によって富がもたらされ、多くの人が行き交いました。
 この小樽に石原裕次郎記念館があるのも、かつてこの地に父親がニシンを運ぶ汽船会社の支店長として赴任してきたことで、 何年間か小樽に住んだことに因みます。
 父に連れられ小樽で料亭遊びをしたことが、のちの彼の芸風に役立ったという人もいます。
   石原裕次郎はニシンやカズノコをどんな思いで食べていたんでしょうか。






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