会社のある今の住所は太田市ですが、昭和37年に堤防の拡張で移転してくるまで現在の熊谷市妻沼という場所にあって、
私もそこで生まれ小学4年まで過ごしました。
といっても利根川沿いのすぐ近くの場所ですが、かつては妻沼町として独立していたところです。
旧敷地や菩提寺もそちらにあることから今でも本籍地は妻沼に置いてあります。
その妻沼に「聖天山歓喜院」という古刹があります。子供のころから初詣は「聖天さま」というのが定番で、近在から広く親しまれているところです。
ここの国重文である本拝殿の大改修工事が完成し一般にも公開となりました。
平成15年から7年間、12億円を掛けての大修理で、再建当時の輝きを見事に甦らせました。
開基は古く、830年ほど前に遡ります。平安時代後期に活躍した斎藤別当実盛が仏教神である「歓喜天」を現在の地に奉祀したのが始まりと言われています。
実盛はこの埼玉県北部の熊谷一帯の「長井庄」を治めた名将でその祖は北陸の出と言われます。
「保元・平治の乱」の軍功で名を馳せ、のちに駒王丸こと木曽義仲を幼少時に助命したものの、
平氏方についたことにより義仲軍挙兵の戦で加賀・篠原の地で討ち死にするという数奇な運命をたどります。
実盛以後は安達、岩松、成田氏などの統治下で聖天宮は守られてきましたが、江戸初期の寛文10年(1670年)の妻沼大火で焼失します。
65年間の仮本堂時代を余儀なくされたのち、享保20年(1735年)に再建着工にこぎつけますが、この再建が他寺と違うのは、
庇護を受けずに周辺28ヵ村の檀信徒の浄財のみにより行われたという事です。当時の海算院主と妻沼の工匠林兵庫正清が全精力を傾けたと言われます。
当時正清46歳でしたが、着工時は60才を迎えていたといわれます。日光東照宮を彷彿とさせる絢爛な権現造りで、彫刻は上州花輪村の石原吟八郎、
彩色は狩野派の表絵師下山平吉、漆塗りは妻沼の萩原与兵衛という記録が残っています。
途中工事の中断もあって、全体が完成するのは発願から59年後の安永8年(1779年)で、正清は完成を見ずにこの世を去っています。
この本殿は特に彫刻に括目します。亀腹石に建って、柱だけでなく土台、長押、頭貫などにも地紋彫りが施され、縁葛には猿の彫刻を付け、
高欄部材全体にも地紋彫りがあります。軒は禅宗様の構成となる尾垂木二段の三手先で、尾垂木鼻は龍頭、猿頭の丸彫りを付けています。
中備は花鳥の透かし彫蟇股です。各面とも壁や組み物の間に彫刻をはめ込み、極彩色で仕上げています。軸部は漆塗り、唐木摺りで仕上げ、
各所に飾り金具を設えています。
大羽目彫刻は七福神、腰羽目彫刻は唐子遊びをテーマにしており、囲碁を指したり、相撲を取っているものもあり楽しめます。
中断もあって工事に44年を費やした言われますが、その間には寛保2年(1742年)の利根川大洪水があったことも記されています。
この洪水では埼玉側の堤防が決壊し、妻沼も聖天宮の小山を残して水没した記録が残されています。農作物の被害も甚大で、
民間の浄財で賄っているため資金のめどが立たずの中断だったことが窺い知れます。 この堤防復旧には幕命により周防・岩国藩が派遣されてきたといいます。
その縁から岩国藩の作事棟梁と正清が懇意になり、のちに総門の設計図と書状を正清に送ったと伝えられています。
現在参道東口に建つ貴惣門がそれで、妻側に三つの破風飾りがつく奇抜な重層門で、この地方にはないその意匠に西国・岩国藩の協力が伺われます。
余談ながら、名刹あるところに人材ありで、幕末寺門静軒という儒学者がこの聖天宮に迎えられ、
「両宜塾」を開き地元子弟の教育に努めています。その中に妻沼出身で後年日本の公許女医1号となった荻野吟子女史も学んでいます。
吟子の医師を目指した志しやその後の人生も数奇で、三田佳子さんの舞台や渡辺淳一氏の小説でも有名になりました。
子供のころから通いなれた聖天様ですが、平成の大修理によって290年ぶりに正清が描いたその圧倒的な本来の壮麗な姿を見せられると、
巷間言われてきたような「妻沼に小日光あり」の言葉にうなずくしかありません。
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