「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、
あるところは山の尾根をめぐる谷の入り口である。」島崎藤村の「夜明け前」という小説はこんな文章で始まります。
現在の中津川市馬籠宿に生まれた実父をモデルに、明治維新前後の動乱期を描いた歴史小説として有名です。
先日機会があって、馬籠の隣の宿である妻籠に寄ってきました。中山道六十九次の四十二番目に当たる宿場で、木曽十一宿の一つで、
西より来る木曽路の最初の宿である馬籠の次に当たります。岐阜県との県境に位置し、ここでも本陣や問屋跡には藤村の実家とゆかりのある場所が散見されます。
中山道の中でも難所中の難所として知られ、北の木曽福島には関所が置かれてもいました。東海道を廻らないほどの旅人は否応でもこの道を通らねばなりません。
それ故に小説に描かれたように多くの歴史を刻んできました。
また、この地方は御嶽山麓に位置して、「桧、椹、翌桧、
高野槇、ねずこ」の木曽五木がつとに有名で、秋田杉、青森ヒバと共に日本3大美林と呼ばれます。
桧においては国内で産するものでは最も大径木が採れる地域で、高級な社寺仏閣材として欠かせない木材です。
この地方には昔から巣山、留山、明山の区別があって、
巣山と留山とは絶対に村民の立ち入ることが許されない森林地帯で、明山のみが自由林とされていました。森林保護の精神より出たことは明らかで、
その管理は「木曽桧一本、首一つ」というほどに厳しく、木曽地方を治めていた尾張藩がどれほどこの地方から産する材木を重く見ていたかが窺い知れます。
おかげで林野庁管理になった今でも、伊勢神宮の20年ごとの遷宮用材が何とか用立てできるし、高級な柱材として使うことができます。
コメの生産の少ない地方のことですから、その宿場としての落し金と木材で賄っていかねばならないのは今も昔も同じです。
人工林が多くなってきた今、林野行政も尾張藩の精神に学ばねばならないことも多いように思います。
観光地化されたとはいえ、妻籠はかつての面影を今に伝えていて風情があります。間口二間半ほどの道筋に側溝が施され、
道に面した旅籠の建具は格子戸で統一されています。二階は多くが船造りという持出し梁式になって庇を深くしています。
水に強い地産の椹材でも使用したのか、樋も文字通り木製の樋が付けられています。
通りを眺めて思いを馳せると、江戸時代の藁草履に脚絆巻の旅人が今にも旅籠から出てきそうです。
ここから先は馬籠峠を抜ければ岐阜に至ります。500m近い標高差を超えていかねばなりませんが、
今は阿智村まで恵那山トンネルが抜けていて数十分で行くことができます。
この恵那山トンネルを昭和48年に掘削工事しているときに発見された温泉が今回泊まった「昼神温泉郷」です。アルカリ分の強い温泉水で、
肌がすべすべになることから美人の湯とも言われています。阿知川沿いに立ち並んだ旅館群は妻籠の旅籠と違って近代的な豪華な建物が並んでいます。
京都三条大橋から木曽路を経て妻籠などの宿場に泊まり、江戸まで数日間掛けて歩いた時代と、
将来この南信濃を通るリニア新幹線でトンネルだらけの中を大阪まで67分で行け日帰りできるのと、果たしてどちらがゆたかな旅なのか。
途中多くの人との出会いや自然とのふれあい、遠くに見える名峰を仰ぎ見て無事を祈願しながらの旅は危険も伴なうものの、
旅の醍醐味を味わえたのではないかと思われます。
新幹線で往復しての旅行で「おやま祝い」をやるのは意味が違うような気がしますね。
それにしても多少標高も高いのでしょうが、7月の真夏の妻籠はうだるような暑さでした。
今度、夏行くときは「夜明け前」にしますか?
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