6月26日、母が亡くなりました。急な出来事でした。
前日まで散歩し、運転もしていたのがお昼近くに持病の腹痛を訴えて入院。腸閉塞との診断からチューブで腸内のたまったガスを抜き取る治療を始め、
改善されているように思えましたが、翌未明、心臓の拍動が衰えてきて急遽ICUに移設。一時、蘇生はしたものの自発呼吸ができずにそのまま帰らぬ人となりました。
急性心筋梗塞との診断でした。享年81歳。
年の割に元気な母だっただけに、周囲は動揺を隠せないでいます。
昭和5年4月1日生まれ。この年は昭和大恐慌の真っただ中の年で、日本経済は今とは比較にならないほど不景気だったと聞きます。
11月には当時の浜口雄幸首相が東京駅で刺される事件も起きています。そんな時代背景もあったのでしょう、本当は4月9日生まれだったのを、
学校へ少しでも早く入り一年早く卒業をさせることで、農家ですから労働力を確保したい親の考えから、
4月1日に変えて出生届をさせられたと本人から聞いたことがあります。今とは逆です。
学校も幼子の子守りをさせられながらの登校で、授業も満足に受けられなかったといいます。
名前も「正之」と書いて「まさの」と呼びますが、これも、3人続いた女子だったため、
男子誕生を願っていた親から男のような名前を付けることで次に男子が生まれることを期待されたといいます。実際そうなったのですが、
本人は病院での呼び出しや、選挙の時の呼び出しの際、「まさゆき」と男として呼ばれることを終生嫌っていました。
自分の子には分かりやすい名前を付けたいとの思いが強く、結果、私と妹には光雄と圭子という名前が付けられました。
昭和23年、見初められて先代の父と結婚。2人の子供をもうけ、同世代には珍しく車の運転をこなし、
私が学生のころには東京まで車で荷物を運んでくれたものでした。
ただ、父も職人気質の一本気で強烈な個性を持った人だった分、苦労は絶えなかったと思います。当時は多くの住込みの職人を抱え、
薪のかまどで「おさんどん」をこなしていたのを子供心に大変だと思って見ていました。馬力のある人で、行動力は男顔負け。積極的で、
こうと思った次の瞬間にはもう行動に移していた人でした。
父が亡くなった後も多くの友人に囲まれて交際範囲も広く、どんな人とも分け隔てなく付き合いの出来るところが真骨頂でした。
15年ほど前でしょうか、幼くして死別した生みの母親のルーツを辿るべく、新潟北蒲原の地へ兄弟で出掛けたことがありました。
役場などの行政機関では限度があり、地域の寺院に何度も足を運び、過去帳からその親族を探し出し邂逅を果たしたのは僥倖でした。
私の母方の祖母に当たる「なみ」という女性は、新潟の北蒲原の出身で、次女だったため群馬のこの地へ出され、
近所の大きな農家に奉公していたのを祖父が見初めて一緒になったと聞きます。あの「おしん」のような時代ではなかったでしょうか。
同じように親と別れて雪深い新潟の地から出てきたのでしょう。
明治の末のことですから満足な交通機関もなかったでしょう。歩いての三国峠越えでは、途中何度も北を振り返りながら望郷に涙したことと思われます。
15歳くらいでの農家の奉公は決して生易しいものではなかったはずで、朝早くから夜遅くまで働き詰めで、一番遅い食事やお風呂だったことでしょう。
祖父と結婚後5人の子供をもうけたのち、産後の肥立ちが悪く、尿毒症を起こして亡くなります。
死の直前まで這って桑の葉を摘みに行こうとしていた記憶が母にはあるといいます。その祖母の姉はさすがに他界していましたが、
その子供たち、つまり母にとっては従妹に当たる人たちに会えたことをことのほか喜んでいたのを覚えています。
母親の生い立ちを知ることで自分とは何者かを知った安堵感があったのでしょうか。
戦争、終戦、高度成長、オイルショック、バブル、リーマンショックと時代の荒波の中での波乱の八十一年間だったと思います。
晩年、長患いをせずに逝きたいと事ある如に話し、尊厳死協会という所へも入会して、万一、延命措置を求められた場合にこれをしないよう、
生前固く我々に言い聞かしていました。
そんな母からすれば、今回の逝き方は本人の望んだとおりではなかったか、そう考えると母親ながら見事だったというしかありません。
そして、旧知のご住職から、「一生懸命生きたからこそのあっけない死に方」という言葉に、幾ばくかの慰みを覚えるのです。 合掌
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