大相撲が賭博疑惑で大揺れに揺れて名古屋場所の開催が危ぶまれていましたが、なんとか開催されています。
その大相撲の本拠地といえば両国国技館です。現在の国技館は二代目で、
25年前の1985年に完成した緑の方形屋根に唐破風をイメージしたと思われる正面玄関が印象的な建物ですが、
元々は近くにある回向院(えこういん)境内で行われていた勧進相撲が起源とされています。初代国技館が建てられる明治42年までの
相撲を指して「回向院相撲」と呼ばれることもあります。
相撲も発祥からして興行的な要素が強かった分、反社会的勢力との接点が出来やすかったことは想像に難くありません。
隅田川を挟んで西が武蔵、東が下総であったことから二つの国境、「両国」と呼ばれたようですが、
今の両国、本所、深川が江戸に合併されるのは両国大橋が万治二年(一六五九年)に完成して東西がつながれて以降のことです。
そのきっかけになったのが明暦大火と呼ばれる江戸市中を焼き尽くした大火でした。その名を「振袖火事」と言い、
本郷丸山の本妙寺で供養に焼いた振袖が火元になった、という言い伝えがありますが、明暦三年(一六五七年)厳冬一月一八日午後出火、
江戸城北の丸、本丸、二の丸、三の丸も焼け落ちるほどの大惨事となり、その死者10万8千とも言われています。
焼き出された以外に、逃げ場を失い橋の無い隅田川に身を投げて溺死した人が2万6千人あったと言われ両国橋を作るきっかけにもなりました。
時は将軍家綱の時代で幕命によりその死者を弔うために建てられたのが回向院で、その後安政大地震などの無縁仏の埋葬にも使用され、
「諸宗山無縁寺回向院」と称されるように、宗派を問わず無縁仏を供養する寺院として現在に至っています。
建物形状も一般の寺院建築とは違い、前衛的なかまぼこ形の山門をくくれば、三階建てビルの本堂となっています。
いくつもの慰霊碑が多く残されていて、明暦の大火の後も、安政大地震供養、天明三年の浅間山大噴火供養、明治二年の肥後軍艦沈没供養等々、
果ては牢死者、生き倒れ者、最後には鼠小僧次郎吉の墓まであるという大供養寺院なのです。
現代のビル群が立ち並ぶ風景からは想像しがたいですが、この地に限らず、東京が幾万の骨灰に支えられての繁栄なのだということを思い知らされます。
火事と喧嘩は江戸の華と言われた時代、そのたびに多くの木材が用材として伐り出されて材木問屋は潤いましたが、供給する林野は疲弊しました。
信州木曽谷にある有名な木曽桧の樹齢が一様に300年から400年という謎がこの辺にあると言われています。
平和になった江戸時代初期の建築ブームと多くの大火によってその木が切りつくされたことが分かります。
尾張藩が尾州桧の森林保護政策を打ち出し、「ヒノキ1本首一つ」という過酷な掟を発したのが1665年というのも、明暦大火と無縁ではないように思えます。
首都東京の防火は悲願でした。しかしその達成はずっと下って東京大空襲の後、昭和も半ばになって建築基準法が整備されるまで待たなくてはなりませんでした。
多くの犠牲が必要だったことを忘れてはなりません。
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