太田市は北関東一の工業出荷額を誇る工業都市ですが、その多くは富士重工業に代表される自動車関連産業に負うところが大きい、
ということは以前この欄の「山門に刻まれた戦争」の時にも書きました。そしてその元になったのが、戦前からあった旧中島飛行機という航空機会社でした。
かつては東洋一の規模を誇り、陸軍や海軍向けに戦闘機「隼(はやぶさ)」や「疾風(はやて)」などの名機を生産していたことは有名です。
その創始者がここ太田市出身の「中島(なかじま)知久(ちく)平(へい)」で、戦前に鉄道大臣、戦後は商工大臣を務めた実業家兼政治家でした。
その中島知久平が両親のために生家近くに建造した邸宅が、市内に現存しています。
地元では、「中島新邸」と呼ばれて郷土の自慢として親しまれてきました。しばらくは中島家の所有の時代が続いたのですが、
先年市が買い取り「中島知久平記念地域交流センター」として整備が進められようとしています。
過日、屋根の谷部分からの雨漏りがひどいため、応急処置をする機会がありました。内外観をじっくり見ることができたのはこの上ない僥倖でしたが、
それ以上にその材料の良さと、設計、工事の卓抜した技術に、昭和初期の職人たちの気概と技量を見る思いでした。
棟札が確認されていて、主屋が昭和5年4月の上棟、守衛門が昭和6年7月の上棟との記録があったそうです。
敷地面積3,000坪、建物床面積300坪、前庭1,000坪という規模で、設計者は宮内省内匠寮出身で、
増上寺大殿などにも係わった伊藤藤一という方だったようです。
主屋は、玄関棟、客室棟、居間棟、食堂棟など複数からなり、和風建築様式に応接室などの洋風建築を加えた意匠構成になっています。
玄関棟の車寄せ部分は銅板葺きの唐破風屋根になって、虹梁、蟇股などの社寺建築の意匠も施されています。接客部分の棟は千鳥破風納まり、
奥座敷の棟がむくり破風納めになっていますが、どれも近来見ないようなプロポーションのよさに感嘆しきりでした。築後80年も経っているにもかかわらず、
材の組手や仕口部分はピタッと納まっていて、狂いのない材料の良さと大工の技術の確かさに関心します。瓦なども当時を知る人からの話では、
1枚1枚を真綿で包んで運んだとされています。今後市の手により、老朽化した部分の補修と耐震補強を施し、
本件に残された近代和風建築を代表する建物として保存されることを望んでやみません。
ただ、この建物にとって不運が2度ほどあり、一つが洪水により水害を受けていること、もう一つが戦後GHQに接収され米軍将校達に使用され、
一部改修が行われたことです。洪水は昭和22年のキャサリン台風によって近くの利根川堤防が決壊して、この地域全体が大水害に見舞われた時で、
床上1m程の高さの壁や襖に水跡がくっきり残ってしまっています。
この地が中島飛行機の工場があったために空爆された他に、戦後GHQがこの地に進駐して来て接客用施設として使用されたため、
ダンスホール等の棟が増設されたり、畳敷きの廊下が靴履き用のフローリングに張り替えられてしまっているのが残念です。
同じ年数を経ても、良い材料でしっかり作った当初の部分とその後の建て増しや改造した部分の違いは一目瞭然で、その点建物は正直だと思います。
戦時中の軍需産業とその後の工業の発展、そしてその裏面の歴史としての被爆と占領。日本が辿ってきた昭和の歴史を、この中島新邸は物語っています。
先代の父がかつて、「太田にあんなすばらしい建物があるのに誰も見ようとしない。」とそんなことを話していたのを覚えています。
今、これを見る機会に触れその意を強くします。
総欅作りの薬医門形式で作られている西門など、私にとってはいつまで見ていても飽きない、地元の「日暮らしの門」なのです。
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