また桜の季節がやってきました。
「世の中に、たえて桜のなかりせば、春の心は、のどけからまし」と謳ったのは在原業平でしたが、、
日本人は昔から桜の好きな国民でした。でも万葉平安人がみた桜は今のソメイヨシノではなく山桜でしたが、
そんな山桜が見られればと、かすかな望みを抱きつつ吉野路に行く機会がありました。
今度始まる寺院本堂の材料として使用する吉野桧の検品のため、奈良へ出向いてきました。
いつも良心的に材料出しをしてくれる製材所での検品は、迷うことがなく時間が節約できてありがたく思っています。
1日半の行程でしたが、少し時間ができたのを機に帰る途中に少し奥にある吉野山へ寄ってくることができました。
世界遺産に指定されている吉野地方は日本を代表する山桜の名所ですが、さすがに3月中旬では季節的に2週間ほど早く蕾の状態で、
満開を想像するしかなく恨めしの千本桜でした。4月上旬くらいには見頃となり、
閑散としていたその場所も花見の人またひとで溢れることになるとのことでした。
近くには400年前に建てられた国宝の金(きん)峯(ぷ)山寺(せんじ)の蔵王堂(ざおうどう)があり、
役(えんの)小角(おずね)を開祖とする修験道の聖地として、その規模と曲がった皮付きのままで使われている山つつじなどの
巨大な丸柱群の荒々しさにずっと圧倒されていました。
吉野は奈良県のほぼ中央に位置しますが、地形的には紀伊山地の北側に位置し、
ここから南はずっと紀伊半島の山並みが続く「辺境」の地ですが、歴史的には桜の観光名所としてだけでなく、
悲哀を含む歴史の名所でもあります。
壬申の乱前に大海人皇子が逃れたり、頼朝から追討される立場にあった義経が静御前と共に赴いたこともありますが、
なんといっても建武三年に後醍醐天皇が南朝を開いた地として、吉野は歴史の表舞台に登場します。
巨星・後醍醐天皇はその政治力のみならず、教養の深さでも抜きんでていたと言われ、金峯山寺蔵王堂内に、
後醍醐帝の直筆の書がありましたが、その格調の高い達筆さには惚れ惚れするものがあります。
後醍醐帝が吉野に実際に暮らしたのは3年にも満たない期間でしたが、ここで52歳の生涯を閉じ、
「魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほっけつ)の天を望む」の辞世を残しています。
最後まで北の京都を奪還しようとする気持ちが伝わってきて、胸を打たれます。
そんな帝の面影を偲びながら、下千本、中千本、上千本、奥千本と続く山桜の稜線を感慨深く見てきました。
今年、奈良は平城遷都1300年祭の年に当たっていて、「せんとくん」のゆるキャラグッズが立ち並んで、
いたるところで記念事業的なことがおこなわれています。
やはり帰路に立ち寄った唐招提寺が先般の大改修を終えて一般に公開されていましたし、
薬師寺では30年前の西塔復興に続いて東塔がこの年末から解体修理に入るそうで、
今後10年間の工事期間中は見られないとのことでした。昨日まで調査用の足場が掛けられていたようで、
いい時期に見られたことは僥倖でした。
桜の季節を迎える吉野山でしたが、林業の衰退が進んでいるのが気にかかりました。 需要不足と後継者の不足から、山の手入れが行き届かなくなっており、 間伐材なども切り倒されたままで放置されていました。吉野でこのような状態ですから他の山は推して知るべしで、 治山治水の観点からも農業同様、国を挙げての取り組みが必要に感じて帰ってきました。
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