新年早々、中米ハイチでマグニチュード7.0という大地震が起こってしまい、 大統領府や病院など政府機関の建物まで壊滅して、無政府状態の様相を呈して救助が遅れていると聞きます。今年は阪神淡路大震災から15年という節目で、
その時のマグニチュードは6.9。たった0.1の違いのように思えますが、マグニチュード法は対数関数に寄っていますから、実際は数倍の規模と言えます。
早期の救助が望まれます。 国内では、恒例の大学入試センター試験が先日行われ、 寒さの中受験生たちが新型インフルエンザに気を使いながら試験会場に臨む姿が映し出されていました。
新聞に公表された試験問題の日本史Bの中に古建築の写真が何葉かあるのに興味をそそられて覗いてみました。中世の文化・政治・社会に関する問題で、
「重源が戦乱で荒廃した南都の寺院再建に採用した様式で作られた建築物はどれか」を問う問題でした。写真は「室生寺金堂」、「東大寺南大門」、
「平等院鳳凰堂」、「円覚寺舎利殿」の4葉が載せられていました。
ゆるキャラの「せんと君」がPRしている奈良の遷都1300年に当たる年だから出題された わけではないでしょうが、
法然など鎌倉時代初期の新仏教興隆と絡めての知識を問う問題のようです。 奈良東大寺の大仏殿・南大門を復興した重源は技術者というよりも、
今でいう建設委員長のようなプロモーター的な役割を演じたスーパーマンでした。教科書的にいえば、 かつて天竺様と言われ、
今は「大仏様」と修正された建築様式を担った人物として教わります。様式はその後禅宗様に変わり、それまでの和様と相まってやがて折衷様がつくられていくことになります。 ただ、禅宗様、和様、折衷様が中世から近世にかけて連続して行くのに、 大仏様だけは重源の生きた25年できっぱり消えてしまいます。
それは重源が東大寺再建の大勧進職にあった間だけでした。 奇異、飛躍そして大胆な架構において、 大仏様というよりは「重源様」だったとするのが的を得ているといわれる所以です。
3歳年長で交流のあった歌人で知られる西行を東下させ、鎌倉の頼朝に援助を請い、さらに奥州・藤原氏へ金を寄付させる役割もさせたといわれています。
大仏鋳造では中国人の陳和卿を使いあのパッチワークのように大仏を復興させ、大仏殿用材には径5尺、長さ10丈(30m)という材を周防の地から用立て、
今日の常識でさえ運搬不能と思える大材を100本以上も数百キロを運んでくるという逸話を残しました。 この重源が完成させた大仏殿は今の大仏殿ではありません。
松永久秀の兵火で惜しくも焼かれ、今のものは江戸中期に再々建されたもので、 重源のものは今の1.5倍の大きさだったと言われますから驚きです。 重源は86歳まで生きますが、その後北条氏は新しい鎌倉仏教として禅宗を全面的に支持し、重源に批判的だった栄西が鎌倉に呼ばれます。 その時、大仏様として編成されていた東大寺にかかわる大工組織の支持基盤も崩壊したと言われます。 現存するこの世界最大の木造建築物は明治40年に大修理がおこなわれ、思い切った補強がなされています。 今大仏の頭の上の屋根を支えているのはイギリス製の鉄骨トラスで、西洋文明を取り入れる時期だとはいえその大胆さに驚きます。 その補強のおかげで今私たちは堂々とした姿の大仏殿を見ることができるのですが、少し行きすぎではないかという気もします。 いまの大仏殿はイギリスに担いで貰っているようなものなのですから。
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