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 歴史学的に大変貴重な資料が発見されたものです。 豊臣秀吉が京都に造営した「聚楽第」へ後陽成天皇が行幸された様子を描いた6曲1双屏風が新潟県上越市で発見されました。 秀吉は天正16年(1588年)4月14日から5日間にわたって、当時の後陽成天皇を自宅である聚楽第に迎えてもてなし、 新しい時代の到来を世間に強く印象付けました。有名な御陽成天皇の聚楽第行幸です。
 これまで三井記念文庫蔵や堺市立博物館蔵の屏風が知られていましたが、 今回上越市で発見された屏風は秀吉側と後陽成天皇側の両方の様子が完全な形で描かれた唯一の作品と言われます。 限定期間で一般公開されたのを機に上越市立総合博物館まで足を延ばして見てきましたが、見事でした。

 聚楽第は豊臣秀次の滅亡と共に、完成後たった7年余で取り壊されてしまいましたが、 一部唐門や天守が醍醐寺や西本願寺、琵琶湖の竹生島に移築されたとの説もあります。 左隻には聚楽第と思われる建物群が描かれてあり、鉄門(くろがねもん)や南門、 天守他蘇鉄や棕櫚の木が文献通り印象的に描かれています。 大勢の警護の人達に守られた桐紋の牛車にはきっと秀吉が乗っているのでしょう。 右隻には聚楽第へ向かう天皇の輿「鳳輦」(ほうれん)が描かれています。
 面白いのは畏まった行列とは裏腹に、画面上の北通りに京都の日常の姿が描かれていて、 当時の一般の人たちの生活の様子が見られることです。扇子や足袋を売る店、頭に炭を載せた大原女や、竹馬に乗ったり、 トンボに結んだ糸を棒の先に括りつけて遊ぶ子供たち、年老いた老婆の手を引く少年など家族の姿も描かれています。 確かなのは作者がこの行幸の現場を実際に見ていたことだというのです。そういう意味では貴重です。
 秀吉は普請好きでした。金を惜しまず使い後世に多くの建築物を残しましたが、この聚楽第だけは現存せず、 こういった資料からその姿を想像するだけです。当時の建築技術の粋を凝らして造営されたことは間違いありません。 鎌倉期に技術的完成をみた建築技法も桃山期には絢爛さを纏って豪華になっていく一方、利休による数寄の建築も生まれます。 良い技術を継承するには良い需要、つまりパトロンが必要なのです。 そういう意味では家康などと違って秀吉の後世への貢献は大きかったし、それがまた彼の人気につながっているのだと思います。
 司馬遼太郎さんの「街道を行く・三浦半島記」にこんな話が出てきます。 小田原攻めの後、秀吉は途中鎌倉に立ち寄って鶴岡八幡宮へ参拝し、頼朝の廟である白旗神社を訪ねて、 そこに掲げてある頼朝公の画像に向かってこう語りかけたと言われています。
 「およそ日本広しといえども、微賎より身を起こし天下を統一し、四海を掌に握ったのはあんたと私だけだ。 しかしあなたは名門の流れを汲んでいる、そこへ行くと私は匹夫より出た。その点、わしのほうが上だと言いたいが、 いずれにも、あんたと私は、天下友達というべきだな。」と、肖像画の肩のあたりをほとほととたたき、 大笑いして去ったとあります。婦人の色白は七難隠すというが、秀吉の場合、この陽気さこそかれの七難を隠していた、 と司馬さんは結んでいます。






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