先日、上映中の映画「禅」を見てきました。
曹洞宗開祖道元の一生を描いた映画で、入宋しての修行時代から永平寺を開くまでの波乱に満ちたその生涯と、
道元を慕って宋から弟子入りした寂円や達磨宗から改宗してきた義演ら取り巻きの人達が、架空のおりんという女性を介して
丁寧に描かれているように思いました。
言うまでもなく、禅宗としての曹洞宗は現在全国に1万5千ヶ寺を擁する日本最大の教団です。
特に北陸から上信越地方に多く存しており、日曜日を利用した団信徒向けの座禅会等で地域に根付いてもいます。
曹洞禅の教えはごく簡単に言ってしまえば、日常の様々な雑事、たとえば炊事とか洗濯とか掃除とかも、すべて「修行」で
あるという思想です。当然「自分の世話は自分でしろ」ということでもあり、「日常生活の中に悟りに至る機縁がある」と
いうことでもあります。
この道元の教えは現代の日本で、それが道元の教えとは意識されないほど当たり前のことになっていて、まさに血肉と化しています。
学校で掃除当番があり、それは生徒のやるもので先生や清掃員のやるものではないというのは日本の常識ですが、
これは必ずしも世界の常識ではないようで、米国や中国ではこういう発想がなく生徒に掃除をやらせたなら生徒は
怒り出すと言われます。
禅はインド人によって生み出され、それを禅宗をいう形で思想体系化したのが中国人ですが、それを完全に「民族の思想」
としたのはむしろ日本人であったと言われる所以です。中国や旧朝鮮が儒教を選択して「考」を根本とし、先祖の教えに絶対忠誠を
誓わせ、新しいことには目を背け肉体労働を軽蔑するという思想下では、国家の近代化はできないと言われます。
道元が日本に伝えた「日常こそ修行」という考え方が、日本をアジアの中で唯一の「自力近代化」国家にしたとも言われています。
但、道元は正確には本山も宗祖も作らなかったというのが映画でも見てとれる真実です。
肩書や栄達を嫌い「只管打坐(しかんたざ)」という只座り続けるのみを唱え続けました。今の巨大教団の元は後世螢山という人が
出て曹洞宗を大衆化したことによるもので、横浜の総本山総持寺を能登から移したのもこの人でした。
良し悪しは別として、浄土真宗の親鸞に対する蓮如のような存在が宗教の大衆化には必要であることもまた真実なのだと思います。
単純な人間はすぐ流されるもので、この映画を見てから朝の短い時間だけ座ることをしてみています。無の気持ちになってと 言われても頭の中をめぐるのは今日の段取りや昨日の出来事、子供のこと、飯のこと・・・・・。弟子寂円は道元死後宝慶寺に籠って 山中の石の上に18年間座り続けたと言われますが、この厳しい現実社会を生きていくのもまた修行のようにも思うのは 達観できずにいる証左なのでしょうか。
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