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赤石建設株式会社 一級建築士事務所
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令和3年10月

 群馬県はその形から「鶴舞う形の群馬県」と上毛かるたにありますが、その鶴の長い首の部分に太田市は位置します。そのなかでも我が家のある場所は最南端に位置し500mも行けば埼玉との県境の利根川が流れています。この辺はちょうど中流域に位置し川幅は多いときで800mほどに及びます。ご存じのように利根川はその長さで国内第3位、流域面積で第1位の大河ですが、新潟県境の三国山系を源流として群馬県をほぼ南北に流れ埼玉、栃木、茨城、千葉を東西に横切り銚子から太平洋にそそいでいます。しかしこの流れが今のようになったのは比較的浅く、江戸期を通じて行われた「天下普請」の一環として行われた「利根川東遷」と呼ばれる大土木工事によってでした。それまでは埼玉県の栗橋・関宿付近から南下して今でも名が残る古利根川-中川付近を通って埼玉を抜けて江戸湾に注いでいました。
 治水史の観点から「利根川の洪水が江戸に及ぶのを防ぐためのもの」と論ぜられてきましたが、しかし事実として利根川の洪水が江戸を直撃したことは一度もなく、かえって「荒川の瀬替え」のように洪水被害を覚悟したうえで舟運を開いている事実が物語っているように江戸期の河川管理は治水よりも舟運確保に重点が置かれていたといえるのです。 結論的に言えば「利根川東遷」事業は徹頭徹尾関東平野の二大大河系である鬼怒川水系と利根川水系の運河化による一体化であるとされています。
今でこそ流通手段はトラックによる陸送が主流ですが、山地や河川の多い日本にあってはついこの間の明治期までは船による海運・舟運が唯一の長距離・高速の輸送手段だったことを忘れてはなりません。そのため江戸臨海部は掘割と呼ばれる運河で張り巡らされ、時代劇によく出てくる柳の木が生い茂る舟の発着場所から下蔵や屋敷に出入りする風情になっていきました。この江戸の運河整備は世界的に見ても早い時期に形成されたとされており、それまでの北前船や樽廻船など外海を回る航海・海運技術の蓄積があったことが寄与しているとされます。家康の考えた構想も天下普請に必要な物資や人足の供給のため、太平洋廻りの那珂湊や銚子湊から入ってくるものを内陸を通じて江戸に迅速に運ぶための舟運コースの構築だったと云われています。それまで鬼怒川水系と利根川水系を一体に結ぶことを妨げていたものが栗橋付近から伸びて我孫子、成田そして房総まで続く下総台地でした。一体化するためには栗橋付近での追分のような形で突き出ている部分の瀬替えがどうしても必要でした。川の流れを変えて新河川江戸川を作り上げたのには家康の江戸入りから実に51年目のことでした。 新利根川の国土計画と江戸の都市計画は常に表裏一体の関係で推移していったのです。
 古利根川一体の地域はその水運の役割を奪われましたが、その発達していた河川沿いの集落はその後も残り東武伊勢崎線や日光線の沿線として北千住・杉戸・羽生・館林さらには日光街道沿線地域として発展し現在に至りますが、新設の江戸川沿岸は江戸期に集落が少なかったせいかあまり発展を見ずに関宿・野田・松戸くらいしかなく鉄道も敷設されることはありませんでした。その理由としては江戸川が人工河川で舟運の専用水路としての役割だけの、今でいえば高速道路的な機能しか有していないことが挙げられます。
 銚子付近の利根川は汽水付近では湖のように広く感ぜられます。当然船の安全を祈願する信仰が起こり神社が置かれることになります。水郷で有名な千葉県佐原にある香取神宮はその最も大きいもののひとつで、香取は楫取り(かんとり)の神、つまり舟の楫取り(かじとり)の神=船乗りの神として東関東の広大な水郷地帯の人々の信仰の中心として発展しました。現在の本殿は黒漆で塗られた豪奢なものでかつて歴世の権力者から庇護されてきたことが窺い知れます。
 銚子の犬吠埼付近には屏風ヶ浦と呼ばれる高さ50mにも及ぶ海食崖が10㎞も続いているところがあります。ここは地盤が隆起して形成されたものですが、先ほどの下総台地が腕の先のような形で伸びている部分であることが分かります。 古くからの霞ケ浦からの流れと相まってこの台地に沿うように利根川は太平洋に飲み込まれて行きます。
いまわれわれが観光地や景勝地として見ているものも、こうしてみると江戸期の多くの大名が「御手伝い」と称して課役された天下普請によるものであることが少なくありません。そしてその巨大さに驚嘆すると共に、機械のない時代各家のその負担の過酷さを思わずにはいられません。幕府から下知された築城や社寺造営の普請、水防などの土木工事、さらに警備役や饗応接待などが絶え間なく大名たちに課せられました。
 そしてその人足手配・食事・宿泊の一切の費用を各大名家が自家の負担で賄わなければならない。それが出来なければ御家取り潰しというお沙汰が待っているだけという、まるで戦時の軍役に近いものだったということを覚えておかなければなりません。  







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