賛否の議論が喧しかった東京五輪も終わろうとしていますが、その中でも伝統的に日本のお家芸として親しまれている競技に体操があります。
引き締まった柔らかい身体を駆使して行われる鉄棒や床運動などを見るにつけその美しさと共に鍛錬の積み重ねのほどが窺い知れて好きな競技ですが、
私はその床運動を見るたびに思い出してしまうことがあります。体育教師として希望を胸に赴任したばかりの中学校で、
クラブ活動のマット運動の模範演技で空中回転した際誤って頭部より転落、
頸髄損傷という大けがをして四肢完全麻痺となってその後寝たきりとなってしまった星野富弘さんのことです。 その後の何年にも及ぶ闘病生活と絶望の中から口で字を書くことを覚え、さらに絵筆に持ち替えることにより水彩画を描けるようにまでなり、
独特の詩画作品をものにするまでのことはロングセラーの著書「愛、深き淵より」に詳しい。
事故とはいえ一瞬の出来事から絶望の淵に突き落とされ、つらい出口のない闘病生活を強いられていた日々。
この深淵から彼を救い上げてくれたのは母の献身的な介護であり、覚えていたいくつかの詩人の言葉であり信仰でした。
そこから生まれた花を中心とした水彩画と素直なことばの一枚一枚に生きることの尊厳や勇気を今でも私たちに与えて続けてくれています。
今でこそ富弘さんの詩画作品はニューヨークやホノルルでも個展が開かれるほどに知られるようになりましたが、30年前、
地元出身の富弘作品を展示すべく東村が当時のふるさと創生事業交付金1億円を使って老人福祉センターを改装してできたのが初代富弘美術館でした。
しかし人口3,000人余りの村に10年間で400万人もの来訪者があったため新しく建替えられたのがこの草木湖畔に建つ新富弘美術館です。
2005年にオープンし話題となり日本建築学会賞も受賞したものですが、開館当初訪れて以来16年ぶりに再訪してみました。
草木ダムの人口湖と足尾まで数キロという美しい山並みに囲まれた場所にしては不釣り合いな52mスクエアの平面形が際立ちます。 そしてその正方形の中は大小33個の円筒が互いにくっつき支えあって構成されていることが高台からの俯瞰で分かります。
シート防水と思われるその円の頂部は少しずつ色が変えられモザイク調に見えます。
中に入ると円形の展示室がそれぞれ繋がれ円と円との間にできる大小の四角い外部空間には富弘さんが好みそうな様々な草花が植えられているという仕掛けです。
設計は公開コンペで選ばれたヨコミゾマコト氏で、大小の円筒を用いたことについてホワイトキューブな均質空間は不釣り合いだと考えたからだといいます。
我々を取り囲む自然を含め存在するすべてのものには固有の属性やコンディションのばらつきがあり、そのばらつきを許容することで初めて共存が可能となる、
その忘れがちなこのきわめて基本的な認識を富弘作品は気付かせてくれるのだとその設計意図を語っています。
様々な仕掛けが施された外周のペアガラス面を始め空調などの技術面も含めて秀逸な建築となっています。
先の著書は「ことば」の力についても教えてくれます。 高校生のとき路傍の墓地にあった十字架上に記された「労する者、重荷を負う者、我に来たれ」。
健康な時にはなんの感慨もなく覚えていたものが、大きなけがのあと人からもらった本の中にそれを見出し、それがマタイ福音書のものであることが分かります。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、
あなたがたも私のくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎがきます。私のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
富弘さんはこの言葉によって救われ、キリスト教に帰依します。そして同じ信者のかたと結婚もします。 「病気やけがは本来、幸、不幸の性格は持っていないのではないだろうか。
病気やけがに不幸という性格をもたせてしまうのは、人の先入観や生きる姿勢の在り方ではないだろうか」という心境にまでなるのです。
苦労を掛け続けた母親に対する詩がナズナの絵と共に架けられています。 「神様がたった一度だけ この腕を動かして下さるとしたら 母の肩をたたかせてもらおう 風に揺れる ペンペン草の実を見ていたら そんな日が 本当に来るような気がした」
初めて個展を企画してくれた久保田所長に巡り合えての感謝を込めた菜の花の詩には少し希望が見えはじめています。
「私の首のように 茎が簡単に折れてしまった しかし菜の花はそこから芽を出し
花を咲かせた 私もこの花と同じ水を飲んでいる 同じ光りを受けている 強い茎になろう」
勇気をもらえた再訪となりました。
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