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赤石建設株式会社 一級建築士事務所
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令和3年2月


 昨年は作家・三島由紀夫の没後50年でした。
 昭和45年11月自衛隊市ヶ谷駐屯地へ乗り込み蹶起の檄文をアジテートした後、総監室にて割腹介錯をして45年の人生に幕を閉じました。
 当時高校一年生だった私はノーベル文学賞候補にも挙がっていた三島が右翼的行動を起こして時代錯誤的な自決を図ったことに少なからずショックを受けたのを覚えています。 陽明学や行動学入門などの著作でしか読んだことのなかった三島でしたが、鍛え上げた筋肉隆々な肉体をもって現代ゴリラを自称し、 当時政治的な季節を背景に東大全共闘との対決に一人乗り込んでいったのをテレビで見ていました。
 大学生になってから彼の作品に触れることがありましたが、その文章の華麗さと語彙の豊富さに圧倒され読み切るまでに時間の掛かったことを思い出します。
 「仮面の告白」、「潮騒」、「午後の曳航」、「宴のあと」、「鏡子の家」等その作品を上げると枚挙にいとまがありませんが、 はやり昭和31年に発表された「金閣寺」が彼の代表作と言っても過言ではないでしょう。昭和25年6月25日朝鮮戦争勃発のニュースが喧しいなか、 7月2日未明「国宝・金閣寺焼失」が世人の耳目を驚かせました。犯人は金閣寺に依拠する若き学僧で、 「美に対する嫉妬、美しい金閣と心中したかった」とその動機を語りました。これが三島の想像力を刺激しこの作品を書かせたのは想像に難くありません。 昨年はこの金閣焼失から70年の年でもあったからでしょうか、内海健氏の「金閣を焼かなければならぬ」林養賢と三島由紀夫—が上梓され、第47回大佛次郎賞に選ばれています。 精神科医としての見識を駆使して二人の来歴から精神構造を解き明かし教えられること多でした。
 火を放った林養賢は昭和4年に福井県との県境に近い舞鶴市の成生(なりう)という岬にある漁村の寺の長男として生を受けています。 若くして父を失い同じ宗派として知遇を得て金閣寺で得度したとあります。 成生から京都へ出るには綾部で山陰本線に乗り換え亀岡を過ぎて峨々たる岩山の間を急流が縫って走る保津峡を通り、それを抜けるとようやく嵐山に至り、京都盆地が開けてきます。
 犯行当時大谷大学へ通学していて年齢は21歳。犯行後母親が成生から養賢に会おうと上京してきますが面会を拒絶され、 傷心した母は帰途この保津峡に電車から身を投げて自殺しています。その後拘留、公判を経て刑が確定して刑務所に収監後結核を発病して26歳にて死去。 晩年は統合失調症-分裂病を発症していたことも分かっています。著者の内海氏は医師の立場からすでに犯行時養賢は分裂病の前駆期にあったと見立てています。 その症状には特有の「絶対的他者」が現れそれに対する服従が強いられるという分析もしています。
 これに対して小説の金閣寺は一人称で語る形式を取り、私―溝口の独白体で綴られています。 事件の結果を知っている読者に対して三島の取った方法は犯人の動機を形づくることに主眼が置かれ、 溝口の見たもの考えたものが最後に「金閣を焼かなければならない」という一点に収斂して行くというものでした。そこには官能的な場面あり、 サスペンス的要素ありでその流麗な文体と相まって読み手を飽きさせず、小林秀雄をして「ほんとに退屈しなかった、読んでて。才能の魔ですよ。 由良川で金閣を焼かなけりゃならんと決心するまではね。」と言わしめました。林養賢の思いを三島の溝口が取って代わるように小説・金閣寺は最後のクライマックスを迎えます。 左大文字山に逃げた溝口をこう描写して終わります。
 
「ポケットをさぐると、小刀と手巾で包んだカルモチンの瓶とが出て来た。それを谷底めがけて投げ捨てた。別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。 一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。」
 死なずに生きようと思ったこの小さな反転が大変印象深く、何度も暗唱するように覚えたものでした。 しかし、先の小林秀雄は作品自体を絶賛しつつも、最後に主人公を殺さなかったことについては批判しています。果たしてどちらが良かったのか、 わたしにはこのままで良かったと今でも思っていますが。
 この「金閣寺」をもって三島の文壇での名声は確立し、海外でも最も読まれている日本人作家となっていったのです。 ナルシシズムの権化ともいわれる三島はその後ひ弱な体をボディビルによって鍛え上げ、剣道も5段の腕前になっていきます。 2・26事件を扱った「憂国」という映画にも出演し、自衛隊への体験入隊も経験、「楯の会」結成につながっていきます。 アメリカ追従をやめ、日本の自立を叫んだ市ヶ谷での演説は当時としてはまだそのメッセージ性が拙速だったのではないかと感じています。 金閣寺は正式名称を「北山鹿苑寺」といい、臨済宗相国寺派の特別別格地、山外塔頭寺院となっています。 西方の衣笠山と背後の左大文字山の懐に抱かれていて、死にきれなかった林養賢もこの左大文字山に逃れて拘束されています。創建は今から六百年以上前に遡り、 室町幕府三代将軍足利義満が荒廃していた西園寺家の北山第を譲り受け山荘として造営したことに始まります。鹿苑の名も義満の法名から取られています。 実質的な日本の支配者としてこの北山第が政治・文化の中心となっていきました。 かつては多くの技巧を凝らした建築物が配されていましたがその中でも精華ともいうべき存在が舎利殿でした。一時は後小松天皇の行幸も仰ぎましたが次代の義持の際に多くが移築、 取り壊しされ、その後の応仁の乱でも舎利殿以外は失われました。現在の舎利殿は昭和の焼失後建て直されたものですが、 明治32年の解体修理の際の詳細図面が残されたことにより可能となりました。
 昨年二十年ぶりに屋根のこけら葺が葺き替えられ、鏡湖池の水面の上に黄金色の壁と共にまばゆい姿を映し出しています。












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