遅ればせながら明けましておめでとうございます。
コロナに始まりコロナに暮れた令和2年が終わっても帰省すらできない新年の正月を迎えようとは、
昨年の今ごろには想像もつかなかった事態に世の中何が起こるかわからない感を強くしています。何しろ正月早々緊急事態宣言が出され初詣も分散しろ、
行っても神社の鈴緒は外されソーシャルディスタンスを取らざるを得ないという状況では、行ってもうかうか一年の頼み事もそぞろになるというものです。
感染症ですから人との接触を断てばおのずと納まっていくのが道理ですが、これだけ人との関りが密になっている時代では何かを犠牲にしなければ接触を断てません。
「三密」を避けるなどと言われますが、この言葉はこれまで空海が真言密教で唱えた「印を結び、真言を唱え、
そして本尊を念じる」という行としての「三密」でしか聞いたことがありませんでした。それは「宇宙の気息の中に自分を寄せて同一化する法」のことですから、
ここにきて他人との接触に距離を取ることに使われていることに少なからず違和感を覚えますね。
しかし経済を回しながらのアクセルとブレーキの併用では時間軸が伸びて人の心理も弛緩しまいがちになるというものです。
ここは「急がば回れ」で思い切った制限を行って接触を断つほうが返って近道のように感じます。
政府のやっていることがあたかも旧日本軍の攻撃の欠陥として言われる「情報の軽視と兵力の逐次投入」を繰り返し消耗戦に陥った轍の再現のように映るのは穿ち過ぎでしょうか。
そんなデジャビュ感を抱きます。
このような状況ですから正月は元日の初詣も遠慮して外出を控えるという日々に。
でもどこか神社に行かないと何となく一年が始まらない気分もあって、日をずらし少し足を伸ばして榛名神社に詣でてみました。
群馬県のほぼ中央に位置する榛名山は赤城や妙義と共に上毛三山の一つに数えられますが、そのほぼ中腹に榛名神社はあります。
創建は古く、6世紀後半と言われ1400年を越える歴史を持ちます。かつては神仏習合の時代にあって満行宮榛名寺などと呼ばれたこともあったそうで、
本殿が険しい岩洞窟に連結されていることからも修験の場所として開かれたのかも知れません。
最初の随神門などは仁王門の形式で建てられていて江戸期を通じて巌殿寺と称された寺院として使われていたといいます。その後おそらく明治の神仏分離、
廃仏毀釈の嵐の中で神社として生き残りを図ったのかもしれません。
門から本殿までは500mほどの距離ですが、その道は険しく途中息抜きをしないと
ならないくらいに急坂が続きます。道中には脇に鞍掛岩と称するアーチ状の奇岩があったり、
県内唯一の三重塔や信玄が先勝祈願のために矢を立てたという言い伝えがある矢立杉という大杉があったりと飽きさせません。
そして最後の急階段を登りきると双龍門が現れ本殿入口となります。現在解体修理中でその姿はシートの中でしたが、そこをくぐると本殿正面にやっと辿り着きます。
拝殿越しに見る本殿はキノコ状の頭でっかちな岩の下に潜り込むように屋根が挿入されています。きっと奥に洞窟があってご本尊を安置しているものと思われます。
頭上のキノコ岩は1400年前から落ちていないのですから大丈夫なのでしょうが、今にも地震で落ちてきそうで不安になります。
そんな緊張してピンと張りつめた冷気に包まれたせいなのか背筋がしゃんと伸びパワーをもらえるような雰囲気を感じます。
祀られている祭神は火の神である「火産霊神(ほむすびのかみ)」と土の神である「埴土毘売神(はにやまひめのかみ)」とされ鎮火、開運、五穀豊穣、
商売繁盛のご利益があると言われています。現在の本殿や双龍門は江戸後期文化年間から安政年間に掛けて建てられたもので、上野寛永寺別当が一時兼務していたとされます。
彫刻の見事な双龍門では彫刻師の名前に熊谷市出身の長谷川源太郎という人物が確認されていて、
彼はこのほかに「日本のミケランジェロ」と称される石川雲蝶と共に新潟魚沼の西福寺にもその仕事を残しています。
行き交う参拝客は少なからずいましたが、出店が出て行列を作るような正月の光景ではありません。それにしても少し見慣れたとはいえ、
参拝後本殿から振り返って見たときの全員のマスク姿の異様さはやはり初詣には似合わない光景に映ります。
今年は寒さがきついのかと思っていましたが、帰路クルマから見た榛名湖の湖面は一切凍ってなく名物のワカサギ釣りができない状況を見るにつけ、
かつてより暖冬になっているとの感を強くします。早くこの状況が収束することを願いつつも、
いろいろな意味で人々の価値観が変化するコロナ後の「ニューノーマル」をアンテナを張って見極めていかなければなりません。
よい一年になりますよう。
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