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令和2年9月


 古代、関東・越後と東北を隔てる場所に三つの関があったとされます。
 常陸の勿来関、奥羽の白河関、羽前の念珠関とよばれています。大和朝廷の支配が及んでいないという意味で蝦夷との境に設けた関所で、 いずれかを通らなければ奥羽へは入れないとされていました。念珠関と勿来関はいずれも海岸線に近いルートをたどりますが、 白河関は旧東山道を抜ける栃木県と福島県の内陸のど真ん中を通るルートです。しかしこの関が現在でもここだという正確な位置が定まっていないと言われて戸惑います。 どうやら古代あった関と平安鎌倉期以降の関とは違うのではないかという説があります。以前この稿でも触れましたが、 平安時代みやこ人は奥州にあこがれ「宮城野」という行ったことのない地を思い描いて少なからず和歌に残しています。
 それを実際に見ようと平安時代に能因法師が訪れ、鎌倉時代には西行がそれに倣い、江戸期に芭蕉がそれをなぞるように奥の細道を旅します。 いずれも関東からこの白河の関を越えての旅だったはずです。軍事でも鎌倉前期、頼朝が藤原氏討伐にむけてこの関を越えています。
 ところが現地に赴くとどうも二つの白河の関があって紛らわしいのです。
 ひとつは国道294号線の白坂という旧宿場にある低い峠で「境の明神」と呼ばれるところです。たしかに峠を境に南は栃木県那須、北が福島県となっていますが、 そこには狭い道路わきに幽邃な神社が二社祀られているだけです。栃木県側と福島県側で祀られている祭神が違うのです。二所ノ関という呼び名がありますが、 このようなニ神を祀る場所をかつて指したようです。果たしてここがいつかの時代の「白河関」だったのか、 鎌倉後期のひとである一遍上人が関所番人のいるすぐ上に位置する境の明神と記された祠の前で念仏を唱えている絵図があるようですが確証はありません。 入り口には和算額が掲額されていて江戸期を彷彿させます。
 そしてもう一つが「境の明神」から車で20分ほど行った旗宿という場所に、国の史跡に指定されているという「白河の関址」があります。 こちらはうって変わって小高い丘にそれらしい構えで鎮座しています。門らしきものを入ると長い石階段が続き、周囲には鬱蒼とした杉の大木がご神木のように並木を形成しています。 登った先にはまだ比較的新しいと思われる白河神社と呼ばれる拝殿・本殿が建っています。
 脇には句碑がありいずれも白河関に題材をとった平兼盛、能因法師、梶原景季の詠んだ3首が刻んであります。 しかし一般にイメージする関所にしては境内の規模が大きすぎる感があり、 土地は起伏に富みつつも比較的整備され低い草に覆われていますが空堀や土塁まで設えているのが分かります。 江戸後期に白河藩の藩主でのちに幕府老中首座にもなった松平定信が在任中に文献調査を命じて、行方の分からなかった「白河関」がここであることを制定したと云われています。
 後年昭和30年代になって大規模な発掘調査が行われ、関所の役人や兵士までも駐屯していたことを証拠づける多くの出土品や土木の跡が露出したそうです。 武器や農具のための鍜治場まで出土し、多くの須恵器や土師器には門や司、厨などの文字が墨書されたものもあったと云われます。 おそらく平安初期の9世紀ころのものではないかと推定されています。
 このことから少なくとも平安初期に白河の関という国家規模の施設があったということがわかります。しかし、その後どういう理由からかこの施設は衰退し、 鎌倉初期頼朝が藤原氏討伐にこの関を越えたころには先の家臣・梶原景季が
     「秋風に 草木の露を払わせて 君が越ゆれば 関守も無し」
と謳ったように関がすでに機能していなかったことが窺い知れるのです。その40余年前の西行がここを越えたときも関の建物も傾き関守もいなかったとされています。 ですからずっと後年江戸中期に芭蕉が訪れた際には地元の人に聞いてもその「白河の関」が「境の明神」なのか「この関所址」なのかさえも定かでなく、 草木や土砂で埋まって、挙句以下のような下りを「奥の細道」に書かざるを得なかったのでしょう。
     「心許なき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ」
とあるだけで、関そのものを探すだけで日が暮れ俳句も作っていないことからもこの地の荒れ果てた様子が良く伝わってくるのです。
 高校野球で東北勢の優勝を願って優勝旗が「白河越え」するか、などと口承されて来ましたが、 いざその場所に来てみるとはっきりした場所が定まっていないことにある種のおかしみを覚えます。その後の松平定信の調査、さらには昭和に入っての発掘調査のおかげで、 芭蕉が見ることが出来なかった古代の関址そのものは今我々が見られて僥倖だと思う反面、凡庸な自分などより芭蕉にこそ得知ってもらい名句を残してもらえてたなら、 今ごろ文学的遺産となって後世に伝わっていたのにと詮無き感慨を持ってしまいます。
  







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