かつて「上毛野国」と呼ばれた群馬県には上毛三山と呼ばれる名峰があります。
私の住む太田市方面から見ると北側に関東平野を屏風のように囲む三山が望めますが、東から赤城山、榛名山、妙義山の順に並んでいます。
地元で子供の頃教えられる上毛かるたの中にも「裾野は長し赤城山」「登る榛名のキャンプ村」「紅葉に映える妙義山」と謳われています。
いずれも単独峰でなく山塊を総称して呼ばれているため各名前の山はありませんが、
裾野の規模が富士山に次ぐと言われる赤城山は遠くから見ても「立派」な山に見え、
伊香保温泉を端に持つ榛名山は榛名湖も含めて青少年の高原学校などに使われた身近な山です。でも一番西側にある妙義山だけは一種異様で、
平野部から見えるその山容は櫛のようにギザギザした岩場のようにみえ奇景を呈しています。
上信越自動車道の横川SA付近に行くとその山容が身近に迫り、見たことのある方も多いのではないでしょうか。
コロナ禍の少し前の話しになりますが初春の妙義に行くことがありました。
遠方からの奇景そのままに登山口の駐車場から望む主峰白雲山は身近にみるとその岩肌の表情がつぶさに見えて奇怪です。
西の耶馬渓、寒霞渓と共に日本三奇勝と呼ばれる所以です。
他の二山がカルデラを持つ火山であるのに対して妙義は海底にあった砂岩や泥岩が隆起し長い年月をかけて浸食風化したものといわれています。
妙義はかつて波己曽(はこそ)と呼ばれ、その由来は古く貞観元年(859年)の文献に出てくると言います。
おそらく山岳信仰による修験道が神仏習合により発展したものと考えられます。境内に入って総門を抜けると少し広い場所に出ますが、
まずそこに築かれた石垣に驚かされます。正面から見ると一見一枚岩のような石垣に見えますが、
近寄って見ると積み上げられたものであることが分かります。延享から明和にかけて築かれたとされますが、
寸分の狂いもなく積み上げられて目地の隙間さえ見えないその石組の技術の秀逸さは他に例を見ません。
同じ山にある凝灰礫岩の妙義石を用いて信州高遠の石工集団が築造したとされますが、江戸期職人の技術力の高さを伺い知れ尊敬の念を抱きます。
そしてその先にある鳥居をくぐると妙義本社までの長い階段が目に入ってきます。
165段あるまっすぐに伸びた石段は一気に登ると少し汗ばみますが、登りきると下には西毛の冨岡付近の平野部が望め、
上には隋神門が目に入ってきます。さらに奥に進むと妻に唐破風を配した唐門を抜けてやっと本・拝殿に着きます。
これが現在国の重要文化財に指定されている妙義神社です。
代表的な権現造りで、本・拝殿ともに黒漆喰銅葺き入母屋造りとなっており黒壁のせいか周囲の彫刻鍍金が鮮やかに映えて見えます。
平成2年に昭和の保存修理を終えているため装飾にはまだ新しさが残っています。
棟札などの資料から大工棟梁を始め各業種の職方は主に江戸表から派遣されたことが分かっています。
宝暦造営と言われる江戸中期の普請時にこれだけの多くの付随した建築物を建てられた背景には
上野寛永寺の末寺という財政基盤があったことは重要です。江戸期を通じて歴代将軍や加賀藩・前田家などの崇敬が篤かったことが窺い知れます。
本殿に施された多くの彫刻類には「水」を題材にした意匠が多いことも注目されます。
山岳域のため落雷の火を除けるためであったのか、近くから出る御神水を表したものなのか、
「水鳥」や「波に扇」などの意匠彫刻が特徴的です。
境内は側道斜路も用意されていて本殿参拝後は階段を使わずとも降りられるようになっていて、かつては老杉の大木で鬱蒼としていたのでしょうが、
今は自然倒木か落雷により伐採されて切り株が目立ち比較的周囲は明るく見えます。
奥の院まではあまりに遠く写真でしか見ませんでしたが、自然が作った石の造形だとは分かっていても、
裏妙義にある「石門」や「丁須の頭」と呼ばれる穴のあいた岩や絶壁の岩場などをみると、
あたかもそこには神のようなものが存在するのではないかという畏怖のような気持ちが今の時代においても湧いてきます。
古よりここが信仰の山となったのはむしろ自然なことなのかもしれません。
また奇峰・奇岩の連なる妙義は登山のメッカでもあり、古来より幾多の登山者に愛されてきましたが、
その中には日本アルプスの父・ウェストンも大正期に訪れています。
今は終着駅となっている上越線の横川駅を降りて裏妙義の岩場を目指したのだろうと想像できます。
私も高校時代登山好きの先生に引率され1学年全員で妙義の初心者コースを登ったことを思い出します。
秋のそれこそ「紅葉に映える妙義山」であったことが50年近く前の遠い遥かな記憶の中にうっすらと残っています。
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