天皇即位に伴う大嘗祭の祭祀を行った「大嘗宮」が期間限定で一般公開されていたのを師走の日曜日見に行くことがありました。
予想した通り皇居外苑の入場口から坂下門まで長蛇の列。2箇所でセキュリティチェックを受けて皇居内に入ってもラッシュアワー並みの混雑でしたが、
誘導員の掛け声で立ち止まることが許されないためか、押されながらも比較的移動はスムーズでした。
大嘗祭は稲作農業を中心とした我が国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたもので、いわゆる新嘗祭に当たるものです。
天皇即位の年に限って大嘗祭として催され国民国家の安寧と五穀豊穣を祈念する儀式とされています。
今回も11月14日夕刻から夜を通して翌日の15日払暁にかけて行われました。内容は秘儀とされていますが建物を見る限り神事に則った古代的なものと想像されます。
旧江戸城本丸跡前に作られた建物数はおよそ24棟。南神門と廻立殿を軸線としたシンメトリーの配置となっています。
屋根形状は伊勢神明様式に似て反りや照りは無く直線で構成され千木や勝男木などは皮付き丸太のまま使用されています。
本来は茅葺の仕様であったものが今回材料の調達や費用的な理由から板葺きに替えられたようです。
建物の材料には主に長野県産のカラマツ、北海道産ヤチダモ、静岡県産の杉が使われたようですが節など厭わないおおらかさがあります。
皮付きヤチダモ丸太を使った南神門など荒々しさと簡潔さがあってよい風情を醸しています。
これらを見るにつけ古代の天皇の位置づけが天照大神を祖神とした稲作農業を司るものだったことがよく分かります。政教分離の論争になる理由もここに在ります。
ひと廻り見終わって出てくるところが江戸城本丸跡というのも何かの因縁でしょうか。明暦大火で焼失した本丸天守閣を幕府はその後再建しませんでした。
こののち二百余年の長期政権を保ったことと、これも無縁ではなかったと言われます。経費節約が主意にせよ、平和都市宣言をしたようなものだったからです。
この効能はこんにちにも及んでいるかもしれません。もしも皇居に天守閣が聳えていたならば、「ははぁ、徳川を追っぱらった一族がいまここにお住まいなんだ」と、
いくらのんきな東京都民でも見るたびに感得するでしょう。それがないものだからなんとなく、天の岩戸このかたここは皇居というものだ、
という気分にわれらはなっているのではなかろうか?そんな説もあります。
大嘗宮を後にして前日引き渡しを終えた新国立競技場にも足を延ばしてみました。
信濃町駅で降り神宮外苑を通って新国立に着きましたが、この位置からでは見上げるばかり。
木材を使った軒裏と高さのスケール感は分かりますが全体像はつかめません。
木材も今は木の色を保ってそれらしく映りますが、果たして10年後以降どんな色になっているか。40mといわれる高さも一様で同じパターンの軒裏が続いて圧迫感があります。
ネットの情報から近くの慶応病院最上階にあるレストランからの眺望がよいと聞いていたので早速移動して慶応病院に向かいます。
日曜で休診日だったため入口を見つけるのに苦労しましたがやっと11階のレストランに到着。
窓際の座席を確保して西側を見ると、なるほど新国立の全体像が少し俯瞰気味に見えて絶好のポジションです。屋根が勾配のほかに緩やかに傾斜している様子や、
都市空間にあって高さや規模がどのくらいの位置にあるのかがよく分かります。
紆余曲折のあった競技場でした。鳴り物入りで開いた国際設計コンペでザハ案を選んで話題を取り、
IOCもその実現を心配する中この案を真正面に据えたプレゼンテーションで首相自ら大演説をぶって誘致に成功。
その三年後に予算超過と環境配慮を理由に実施設計の完了したザハ案を白紙撤回。
海外メディアは「日本が水没したら泳いで逃げる亀の姿」と評されていたザハ案がついに日本から逃げたと囃し立てました。
その後国内勢によって再コンペを行い当選者ありきと揶揄された現行案に落ち着きましたが、政治に左右され水泡に帰した多くの労力が偲ばれます。
限られた工期と予算の制限。その答えがこの新国立だとすれば少し寂しい気持ちになります。
古代の様式をそのまま伝える大嘗宮と最先端の技術を駆使した新国立。同じ祝祭空間を持ちながら、
もうすでにない前者とこれから数十年にわたって使われるであろう後者は対称的に映ります。
建築は工事が終わって初めてその役割を始めます。歴史に耐えるのはこれからです。
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