秋田県と山形県の県境には名峰鳥海山がその美しいなで肩の稜線を日本海にそそぐ形で鎮座していますが、その秋田県側に象潟(きさかた)という地名の場所があります。
かつて江戸時代後期までは浅海に多くの小さな島々が点在し九十九島をなしていたとされ、東の松島、西の象潟と呼ばれるほどの景勝地だったといわれます。
それが文化元年(1804年)の象潟地震で海底が隆起して一夜にして九十九島が陸の中の丘に変わってしまいました。
まだ梅雨開けきらぬ曇り空の休日、行く機会を得て訪ねることがありました。
日本海自動車道路が象潟まで通じて交通の便はかつてより比較にならないほどによくなりました。訪ねたのは象潟にある蚶満寺(かんまんじ)という寺院。
創建は平安初期にまで遡れる曹洞宗の古刹ですが、かつては浅海の中に浮かぶ島の中にあり、来るのに船で渡っていたことが文献や屛風絵で分かります。
参道から見渡す田園風景はかつてここが海の中にあり松の生い茂る小島が点在したことを蒼い稲穂の中に散らばる古墳のような盛り上がりで偲ぶことができます。
江戸期創建とされる山門をくぐると案内所があり、ここから中の庭園を中心に見て廻ることができます。
五千坪余りはあるとされる境内には堂塔だけでなく様々な伝説も埋まっているようです。
歌人西行が詠んだと言われる西行桜や菅原道真の嫡子に因むという梅の木、親鸞が腰を掛けたという石、北条時頼手植えのツツジなど多くの樹石が置かれています。
それだけここがかつては多くの歌人や為政者が憧れ、訪れた証左にもなるのでしょうが、眉唾物で一概には信じられないものもあるようです。
そんな中にあって最も象潟を有名にしたのが松尾芭蕉の奥の細道の一句ではなかったでしょうか。
「象潟(きさかた)や雨(あめ)に西施(せいし)が合歓(ねむ)の花(はな)」
芭蕉がこの地を訪れたのは元禄二年(1689年)の旧暦6月のころ。
象潟地震が起こって陸地化したのが芭蕉来象から150年後の文化元年(1804年)でしたから、芭蕉は海の中に浮かぶ九十九島や蚶満寺を見て上の句を作ったのでした。
西施とは当時詩歌の世界では美女の代名詞だったとされます。
中国の春秋時代のひとで呉と越が争いを繰り返していたころ越王から呉に献じられ、その美しさに呉王が溺れついには国を滅ぼしたと伝えられる女性です。
現在でも「西施の顰(ひそみ)に倣う」ということわざでも知られています。
また合歓の花は日のあたりのいい湿地を好みますから、当時ここに自生していたと思われます。
夕方になると葉と葉を合わせて閉じ睡眠運動をすることから眠むの木、さらに花が羽毛に似て紅を含んで美しさがあることから艶っぽい合歓の字が充てられたといいます。
芭蕉は象潟というどこか悲しみを感じさせる水景に西施の凄絶な美しさと憂いを思い、
それをねむの木の色に託しつつ合歓という漢語を使ってエロティシズムを表現した前衛的な句と評価されています。
境内にはこの句に因み奥の細道の道標とともに芭蕉像、西施像が建ち、合歓の木が花をつけて芭蕉来象時を偲ばせています。
案内所で高台から見下ろせるところを尋ねたところ、近くにある道の駅の展望台を紹介され登ってみると南に鳥海山、東に象潟の九十九島、北に男鹿半島、
西に日本海が望めるパノラマが楽しめます。またそこに掲示してある九十九島の田んぼに水が張られた季節の写真を見ると、
あたかも芭蕉時代の象潟に来たかのような浅海の風景に変わるのに驚きました。田植え時期に来て展望台から見下ろすのも一興かもしれません。
江戸期、象潟も蚶満寺も秋田藩の領地ではなく六郷家という二万石ほどの小藩に属していました。
江戸中期以降になると米経済から貨幣経済へ移行するようになって小藩では経済的に立ち行かなくなるものが出てきたといいます。六郷藩も例外ではなかったようで、
苦しい藩運営のなか文化元年、象潟地震が起こります。藩はこれを奇貨として盛り上がった低湿地を水田にすべく九十九島の山をつぶして埋め立てしようと企てます。
一人反対したのが蚶満寺二十四世の覚林だったと言われ、覚林はのちに藩命を批判したかどで牢に閉じ込められみじめな死に方をしてしまいます。
その後新田が四、五十町歩開発されたようですが島々をつぶすことはやや控えられたといいます。
いま田園の中にかろうじて60ほどの旧の島が残っているのは覚林禅師の命を懸けた抵抗のおかげだと言えなくもありません。
平安期の能因法師の歌にあこがれて鎌倉期に西行法師が訪れ、その西行の歌を慕って江戸期に芭蕉が訪れた象潟。
その名勝を藩のメシの足しにするためにつぶされてはかなわないし、公権力はそういうことをすべきではないと、覚林が教えてくれているように思えます。
|