明けましておめでとうございます。
平成の元号としては最後の一年がスタートします。
異例の生前退位という形で譲位する今上天皇におかれては、
新憲法下の象徴天皇としての役割がどうあるべきかを美智子皇后と共に真摯に考え実践してきた30年だったろうと思います。
戦没者への追悼と国民への寄り添いという一連の行動に対して崇敬の念を禁じ得ません。
5月に変わる新元号を契機にどんな時代に切り替わっていくのか期待と不安が入り混じります。
そんな中、正月の休みに機会あって和歌山県北部の岩出市にある根来寺(ねごろじ)を訪ねることがありました。
ここは覚鑁(かくばん)上人が開いた新義真言宗の本山として知られているところです。
覚鑁は真言宗中興の祖と言われる人で弘法大師から300年後に生まれた平安時代後期の高僧です。
空海開山以来の「伝法会」を復興させようと旧来の高野山衆徒と対立して離山、この根来の地にその活動の場を移したとされます。
根来寺は中世を通してその教義が支持され寺勢を伸ばし、
戦国期には鉄砲を使うのに長けた「根来衆」と呼ばれる僧兵一万余を擁し戦国大名に傭兵として使われたことでも知られています。
しかしときの中央政権と対峙することとなり、天正年間に豊臣秀吉の紀州侵攻によって炎上、二千もあったとされる坊院のほとんどを焼かれたとされます。
中心の大伝法堂も解体されましたがその中で大塔は難を逃れ、それが現在国宝・根本大塔として残存しています。
境内の下から見上げる大塔は我が国で最大の木造多宝塔と言われるにふさわしく、まずその大きさに圧倒されます。
多宝塔は一般には下重3間四方のものが多いですが根来寺のものは5間四方あり、総高36mに及ぶ規模を誇ります。内部には12本の柱が円形に立ち並び、
そこに引違戸や連子窓を設けて内陣と外陣を区別していますが、こうした形式の多宝塔を大塔(だいとう)と呼んで、空海が高野山で創建した新形式と言われています。
昭和12年に大規模な解体修理が行われて、その際に発見された多くの墨書や銘文によって造営過程がかなり分かってきたといいます。
今から480年ほど前の天文16年に完成を見たとされますが、大塔造営の発意から数えて119年、下重の着工から実に68年を費やしていることが判明したといいます。
工事中も屋根野地工事から瓦を葺き終えるまでに20年、内部の造作を終えるまでに40年ほどの月日が掛かっていることがその墨書から明らかになっています。
瓦を載せるまで雨ざらしの期間が長くあったことになります。どんな事情があったのでしょうか。想像を巡らせるしかありませんが、政治的な対立や資金・材料の調達、
工匠の手配など苦難を経ての造営だったことが窺い知れるのです。
小屋組に至っては昭和の解体修理時まで建立以来ほとんど手つかずの状態でよく当初のものが残されており、中世の大工道具や瓦師の定規などが置かれたままである他、
特に建て方時に材を引き上げるための轆轤(ろくろ)という回転道具が小屋裏に組み込まれた状態で残存していて、絵巻物に見られる中世の建築現場を彷彿とさせると記録にあります。
大塔という大建築に対する工匠の苦心の様子が感じられる部分に上重の四隅の支柱があります。
四手先となっている軒の出は特に隅組物の出が大きく垂れ下がりを防ぐため途中に入れられたものと思われますが、
上の肘木への取付は突き付けで一見後から入れられたものと見まがうほどに仮設的です。しかしこの支柱には下重の野隅木が貫通しとなって納まり、
小屋組と一体となって当初から存在したことが分かっています。大面を取り上方で断面を細くし内側に傾斜させるなどその取り扱いに神経を使っていることが分かるものの、
塔としての美観を犠牲にしても構造強度の観点からあえて支柱を建てた工匠の苦慮を垣間見る思いです。
鳥羽上皇に下賜されたこの根来の地で、空海開山以来の伝統を復興させようとした覚鑁。
500年の歳月を経て虫穴が多く見られるようになった側柱や秀吉の侵攻で鉄砲の弾痕が残る腰長押など歴史を多く刻んだ大塔は新年の青空の下、
後背の山を背景にプロポーションよく佇みその重みを醸し出し見る者の心を打ちます。
根来の地は日本列島を横断するような形で島弧を構成する中央構造線上にあって、紀ノ川に沿った温暖で肥沃な土地の中にあります。
惜しむらくは、「ねごろ歴史の丘」と呼称された近世以前の閑静な佇まいが残されている根来寺境内の周囲は少しずつ開発が進み、
境内前面に大型道路が貫き後背の山が砕石場になるなど乱開発が続き、
外れの市立図書館近くにはラブホテルが存在するなど根来文化の保護・継承をめぐる課題は山積しているようです。
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