少し間隔が空きましたが先代の手がけた堂宮を巡ってみることにします。
今回は東京都港区三田にある御田八幡(みたはちまん)神社を訪ねてみました。
山手線田町駅の慶応大学側の出口を大学とは逆の方向に第一京浜を下ると間もなく右側にビルに挟まれるように鳥居と参道が見えてきます。
すぐ隣のビルに大きく「御田八幡神社」の案内看板が出ているので分かりましたが、間口が狭いため注意して見ないと通り過ぎてしまうような入口です。
もしかしたらこのビルも神社所有なのかもしれません。
案内板に沿って少し行くと拝殿までにはかなり段数のある階段を上がることになります。
急なためてっぽう階段の男坂と廻り階段が付いた女坂に分かれて登れるようにスペースが取られています。
少し息を切らして階段を上がりきると正面にその御田八幡の拝殿が見えてきます。
それほど広くない境内に本拝殿の他神楽殿・社務所を持ち、別当寺の宝蔵寺も習合してあるほどに伽藍が混み入って立ち並んでいます。
結構高台にあると思いきやさらに神社奥は崖地となって10mほどの高低差をなし、その上には亀塚公園という区立の児童公園が置かれています。
ここはかつて大正期まで旧宮家の華頂宮邸があった場所とのことですが、このことからも神社境内が高い丘陵の一角に位置していることが分かります。
神社の由緒書きによるとその創建は古く和銅年間まで遡ります。
源氏家臣の一党の氏神として延喜式内にも記載があるといいますから古くから尊崇されていたことが分かります。
家康江戸入城の際に奇瑞があったことから現在地の御田郷に遷座され東海道の沿道という立地から大いに栄えたと伝わります。
寛文8年の牛込大火によって焼失し近在に江戸屋敷のあった肥後細川氏により再建されたものが戦前まで伝えられていましたが、
昭和20年5月の東京大空襲でその社殿も焼失、昭和29年再興された際に先代が携わったということになります。
家の古いアルバムに上棟時と竣工時の写真が残されています。権現造りの奥本殿は隠れて見えませんが、
拝殿を左斜め方向から映したモノクロの竣工写真には真新しい建物とまだ整備されていない境内が映っています。
現在の境内は樹木が繁茂し全体が見えづらくなっていますが、まだ当時植樹が少なかったとみえ今では見ることができない社殿全景が映し出されていて新鮮です。
間口が15尺ほどあると思われる唐破風向拝は比較的緩やかな曲線で全体が作られていています。
入母屋身舎の正面には千鳥破風の妻屋根が取り付き銅板の緩勾配の優しい屋根線を際立たせていますが、
軒の出が一重軒になっているため屋根全体に比して唐破風の大きさが際立つ印象を与えるプロポーションとなっています。
上棟式の写真では宮司らしき笏を持った三人を中心に工匠たちが烏帽子直垂姿で誇らしげに立っています。
私も以前寺院の上棟式でこの支度をしたことがありますが、この当時格式ある上棟式では工匠が直垂を着て催事を執り行っていたことが分かります。
この時先代は若干28歳と思われ責任棟梁として現場を指揮したもので、当社の社寺履歴の最初に置かれた現場となりました。
生前いくつかの思い出話をしていたことを覚えています。
契約時に先方と金額が合わず席を立って帰路に着いたところ田町駅ホームまで追いかけてきて呼び戻され再交渉となったこと、
建て方時にクレーンがなく大きな松梁を階段下から弟子と二人で担ぎ上げた際の重さが容易でなかったこと、
当時結婚を決めていた母がたまに上京しては炊事など身の回りの世話をしたこと等々聞いたことを思い出します。
先代にとっては若かりし頃の苦労した仕事の汗と青春の甘さの香りが入り混じった場所だったのではないでしょうか。
今でこそ神社周辺はオフィスビルや高層マンションが立ち並ぶ都内の一等地の場所ですが、
かつてこの辺りは第一京浜に東海道が走りそのすぐ脇の山手線辺りまで海岸線が迫っていたといいます。
天保年間に発行された「江戸名所図会」にはこの界隈が「三田八幡宮」として細かく描かれていて、
これをみると登り階段の位置や本拝殿配置は現在のものと一致して変わりないことが分かります。
鳥居を出ると東海道と思われる街道に多くの人が行きかい、沿道と海岸線の間には商店と思われる家屋が軒を連ねているのが見えます。
その殷賑さと共に境内高台から見下ろす江戸湾はさぞや美しかったろうと思われます。
海岸線の埋め立ては芝浦海面埋立地と呼ばれ明治45年から始められているようですから、
東海道本線が開通したころはまだ海岸線を鉄道が走っていたことになります。
今の三田警察署やNECビル、芝浦工大などのある芝浦地区のおもだった場所がすべて海の中だったことを思うと隔世の感があります。
人口密度の過密と相まった海岸線の埋め立てはやむを得ざる選択だったとは思いますが、かつての土地の記憶というものを忘れさせてしまう淋しさもありますね。
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