兵庫県に圓教寺を訪ねた際小野市という少し離れた場所に国宝・浄土寺浄土堂があり、これを見ずには帰れないと思い足を延ばしてみました。
兵庫県中央にある播磨平野にあって神戸にほど近い、といっても田園地帯の中に忽然とその境内はあります。
境内は周囲より一段高い台地に設定され池を中心に西に浄土堂、東に室町期の薬師堂が配置されています。
浄土堂は建久6年(1197年)に完成したものがほぼそのまま現存していますから実に820年経ていることになります。
平氏の南都焼討ちからの復興を目指し、大勧進に任ぜられた重源がその大仏再興の拠点として関西に7か所あった東大寺領に別所を建てた内の一つがこの浄土寺でした。
境内西に鎮座する浄土堂を見てその抑制的な外観にまず驚かされます。方三間の平面に方形屋根が円錐状に懸かっているものの、軒の先端は水平でほぼ真っすぐ。
所謂軒反りがありません。しかも垂木先端は小口を見せずに今風の鼻隠し板を取り付けて釘打ちしています。屋根瓦のラインも照りはほぼなく素っ気ない感じまでします。
ただ軒の出を支える組手には重源好みの挿肘木が三手組で組まれていて東大寺南大門の意匠を彷彿とさせます。
ところが狭い入り口から内部に入るとイメージは一変。構造体を露出させすべて朱色に仕上げられたその木組みと高さが5m30㎝あるとされる阿弥陀如来像、
差し込む西からの光に度肝を抜かれ圧倒されます。訪れた周りの人たちがそうしているように、私もその如来像を前にして床板にへたり込むしかありませんでした。
プランの中央に配された金色の阿弥陀三尊像は仏師快慶の代表作とされるもの。その周囲を4本の四天柱が丸太のまま、
天井を張らずに垂木現わしとなっている屋根裏まで届き、柱に刺さった3段の虹梁は外に3方向に向かって延びて垂木と屋根を支えています。
すべての木材には水銀を原料とした丹塗りが施され床に反射して入ってきた光を受けてあたかも自分で発光しているようにさえ見えます。
虹梁下の錫杖(しゃくじょう)彫り底地には白が塗られ、それがあたかも如来像から四方に解き放たれたレーザー光線のようにも見えてくるのです。
如来像という主体の扱い方、西側の蔀戸を開けた際に入ってくる西方浄土の光、構造を熟知した正直で明快な木組み、無駄な装飾を排した合理性。
重源の知性とセンス、建築的力量を余すところなく伝えていて、西方浄土の思想さえ浮かんでくるようです。
その精神性はモダニズムにも通ずるところ多のようで後年多くの建築家がその影響を受けています。
安藤忠雄氏が淡路の本福寺水御堂を設計した際にこの西から入る光で浄土を現出させる手法が採られたと言われます。
この独特の柱配置には当時流行った遊行の念仏衆の影響があったとされています。
阿弥陀堂建築では柱を3mくらいの間隔で立てるのが普通ですが、ここでは6mにもなっています。
念仏衆が立像の周辺で念仏を唱えて回遊するため狭いと柱が邪魔になるため取ってしまった結果だといいます。
柱間を倍にすると構造的には4倍の力が部材にかかりますから、それを持たせるため複雑に工夫した構造が生まれたとされるのです。
同じ阿弥陀堂でも貴族が作った宇治平等院阿弥陀堂などとは似ても似つかないほど動的で、
一方が静かに月を見る室内楽ホールとするならこちらはあたかもディスコかと思われるような驚きがあったろうと思われます。
重源は当時61歳で、熱烈な阿弥陀信者だったといわれる快慶とも近い関係にあり、
このぴったり納まった仏像と建築の一体感を出すため何回となくやり取りがあったことを想像します。
建築的技量だけでなく浄土信仰への深い造詣がなければこのような精神性の高い空間は達成できなかったと思われます。
重源は宋に渡り僧にして最新の南宋の建築技術を習得してきたとされています。その様式は教科書的には大仏様と呼ばれていますが、
その伝統に縛られず破格かつ斬新な様式は重源様と呼ばれた方がしっくりし、実際後年この様式を持った建築が出現していないことからも明らかです。
鎌倉時代初期という政治の不安定な時代にあって大仏殿復興という大事業を成し遂げた重源。南都復興の完成を見て86歳の生涯を閉じますが、
東大寺俊乗堂に伝わる重源像の風貌は柔和にしていかにも好々爺の印象を受けます。しかしその行動は日本海の荒海を渡って三度の入宋を果たしたり、
周防の深山から大木を伐り出し瀬戸内海を渡って用材を運搬したり、西行を使って藤原氏に金の無心をしたりと、
その破格の行動力は時に策略家で手段を選ばない人物像として見られ、その像の印象からはかけ離れた感があります。
しかし彼の合理的な考え方と前衛性を目の当たりにして久しぶりに建築の持つ魅力と醍醐味に興奮し、発想力さえあれば建築は自由なんだと改めて感じたのでした。
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