塀や蔵などの建築資材に使われる大谷石はその名の通り宇都宮市大谷町に産する石材ですが、その地下採掘場跡が「大谷資料館」として公開されており6月の暑い日訪ねてみました。
資料館には大谷石の組成や採掘工具の歴史を展示するコーナーが1階部分に設けられていますが、圧巻なのは狭い石階段を下った地下採掘場跡。
野球場がすっぽり入る2万平方メートルの広さに深さ約30m、最も深いところで60mもある巨大空間が広がっています。
壁一面には手彫り時代の石材を掘り出した跡が美しい模様を残し、間接照明に照らされた様はまるで古代神殿の中にいるような景観を呈しており、
エジプトのピラミッドの内部やインディ・ジョーンズの世界観のような幻想的な空間となっています。大正から昭和にかけて大谷石が採掘された場所で、
太平洋戦争中は陸軍地下倉庫としてや中島飛行機宇都宮製作所の戦闘機「疾風」の地下機体工場としても使われたとあり、
他の地下工場や外部への抜け道などでアリの巣のように隧道が張り巡らされています。
構内の平均温度は8℃前後と6月にも関わらずダウンジャケットを着るようでしたが、その情報は人口に膾炙していると見えて観光客も多く、
連なった大型バスや遠方からのマイカーの量に少し驚きました。
我が家でも先代が作った外塀に大谷石が使われているように関東近在では少し贅沢普請としてその用途は多岐にわたり、耐火性の良さから蔵はもとよりカマドや防火壁、
パンやピザを焼く窯材などにも使われてきました。軽くて加工しやすいのが特徴で表面の多孔質の風合いが知られ、
大正期ライトの旧帝国ホテルの壁材としても使われて有名になりました。材質としては珪酸を多く含む新生代―1,500万年前の軽石凝灰岩の種類として分類されています。
日本列島の大半がまだ海中にあったころ火山の噴火により噴出した火山灰や砂礫が海水中に沈殿凝固したものとされ、隆起後大谷町から一部宇都宮市街地まで東西4㎞、
南北6㎞に渡って分布しているといわれます。
通常なら露天掘りするところですが上部に「ミソ」と呼ばれる茶色い空洞化しやすい層があるため山の横穴から掘り進んで柱を残して上部層を残すことでこのような坑内掘りになった
と説明板にあります。柔らかいのでツルハシで掘り出せるため、
壁一面にそのハツリ跡が残されてしかも職人によってその形状が少しずつ異なっているのがかえってクラフト模様のようで深い味わいを醸し出しています。
推定埋蔵量6億t、年出荷量2万tとされこれまでに約1,000万本の石が切り出されたといいますが、
それにしてもよくぞこれだけの石材層を人力で掘り出したものと感心してしまいます。経済活動に懸ける人間の業の深さを思い知らされる気がします。
近年になってこの幻想的な空間を舞台装置として目を付け利用することが多くなったそうです。これまでに使われたイベントや撮影の様子が展示されていましたが、
映画「セーラー服と機関銃」のロケや喜多朗コンサート、ゲームソフトの背景や新車モデル撮影などに使われたとあります。
大正期に汗水垂らした苦役で掘り出していた石工たちからすれば想像もしなかったような跡地利用かも知れません。
戦後一時期この冷蔵庫のような一定低温を利用して政府米の貯蔵庫として使われていたそうですが、電気要らずの冷蔵機能を他に有効利用したい気持ちにさせられます。
付近には風化しやすい大谷石のため奇岩の類も多く、岩が迫り出して大穴が穿たれたような場所には平安期摩崖仏が彫られ日本最古と謳われて公開されています。
平泉の達谷窟毘沙門堂を思わせるような御堂が組み入れられ内部に入ることによりその大谷千手観音と称される摩崖仏のお姿が見える仕掛けになっています。
近くには縄文期の遺跡も発掘され、1万1,000年前の二十歳前後の男性のほぼ完全な人骨が出土し展示されています。
この地に縄文草創期から人が住んで大谷石を利用していたことを思うとその密接さと歴史の長さに少なからず感動を覚えます。
風雨に晒されると劣化が進む大谷石は戦後コンクリートの普及と相まって少しずつ需要に陰りを見せるようになり建築資材としては衰退していきました。
しかし近年は厚さ2㎝程度に薄くスライスする技術が開発されたほか、見た目の美しさの再評価もあって内装壁面や店舗、
ホールなどに意匠として利用されることも多くなってきました。
地元の金融機関などの新しい建物の外壁面にも構造体としてではなく張り材として使われているものが道路から散見されます。
建築設計者の石材意匠に対するこだわりを見せることで材料の用途は可能性を拡げるものです。
反面明治期の古い採掘場所では地表部の陥没事故も複数起きて地域住民を不安がらせています。
ここでしか採れない貴重な自然の産物である大谷石ですから後世自然破壊と言われないような採掘や使い方を模索してもらいたいものです。
|