久しぶりにオーケストラの演奏会を聴く機会がありました。
誕生日のお祝いにと子供が群馬交響楽団定期演奏会のペアチケットを贈ってくれたもので、土曜日の夜という時間帯でしたが本拠地の高崎まで聴きに行ってきました。
群響の本拠地は高崎市にある群馬音楽センターです。特異な形をした音楽専用ホールで昭和36年に市と市民による寄付金によって旧高崎城址に建てられました。
設計はアントニン・レーモンドで建築史的にはモダニズム建築の代表的な建築物として評価されているものです。
レーモンドはフランク・ロイド・ライトの下で学び、旧帝国ホテル設計時に来日しその後日本にとどまって活躍したチェコ出身の建築家でした。
この音楽センターでは折版構造と呼ばれる構造体が採用されそのコンクリートの構造体がそのまま内外観に表れる構成になっています。
のこぎり型に見える外観では雨水の処理に苦労したことがうかがえますが、内観ではその構造がダイナミズムを生み間接照明と相まって独特の空間演出となっていますが、
素材のせいでしょうか残響時間は少し短いように感じます。
敷地レベルからそのままホワイエにつながり観客席は地下として掘り下げられ、
プロセニアムがなく客席と舞台がつながって連続性を生んでいるのも市民音楽ホールの設計としては一体感が生まれ好感が持てます。
当日の演奏は音楽監督の大友直人さんの指揮でヴォーン・ウィリアムズのロンドン交響曲などイギリス物とラヴェルのト長調ピアノ協奏曲が演奏されましたが、
ヴォーン・ウィリアムズは大友氏の十八番でもあり、ラヴェルの方は独奏の小川典子さんのピアノが出色でした。
終演後はホワイエに小川典子さんが出てこられ聴衆を前に演奏曲の説明や質疑応答をされていたのが地方楽団らしい企画でほほえましく感じられました。
群響は昭和20年のその設立時から地域の子供たちにクラシック音楽を伝えようと各学校に出向き演奏会を催してきました。
そのおかげで私たち群馬の子供たちは小中学生のころから体育館や講堂でオーケストラの生演奏というものに接する機会を持つことができました。
今のようにクラシック音楽に興味があったわけではありませんでしたが、それでも生で聴く弦楽器や管楽器の艶やかで色彩的な音は子供心にも新鮮に聴こえてきたものでした。
学校に限らず働く人たちやハンセン病療養所にまで演奏に出向き地域に根ざした交響楽団として活動したことは、
その後昭和30年に今井正監督により映画化され300万人動員のヒット作となった「ここに泉あり」に結実します。
映画には作曲家の山田耕作やピアニストの室井摩耶子がそれぞれ本人役で出演しているといいます。
そんな来歴から地方交響楽団の草分けといわれた群響ですが、その経営は創立当時から危機的であることに変わりなくよく高崎市民が支えてきたと思わざるをえません。
今でこそ札幌交響楽団やアンサンブル金沢など地方にオーケストラはあまた存在しますが、その経営・運営に厳しいものがあることは共通の悩みでもあるのです。
中央楽団にあっては例えばNHK交響楽団はNHKと、読売日響は読売グループと密接につながっていますが、マスメディアもクラシックと結びついていてTBSが東京交響楽団、
フジサンケイが日本フィルを支えていた時代もありました。
しかしこの種の蜜月関係は壊れつつあり、2020年東京五輪後にはメセナといわれる文化芸術に対する公的、
企業による助成は総じて減らされていくだろうことを音楽評論家の片山杜秀さんは危惧しています。
クラシック音楽はお金がかかります。100人の交響楽団が2,000人の聴衆を相手に演奏し、
独唱と合唱と管弦楽を合わせて200人で1,500人の観客を前にオペラを上演するなど、ポップスなどと比べるとひどく効率が悪いのです。
チケット代を常識的水準に保てば満員でも赤字になる。本気で価格設定したら買えない値段になる。公共や民間の援助を受けないと成り立たない理由がここにあります。
日本のプロの交響楽団だと収入の2割から3割がその種のお金で賄われていて、大幅減額即存続不可能の構図となっているといわれます。
また久しぶりに行ったコンサートでいちばん驚いたのはその聴衆の高齢化です。片山さんも日本でも欧米でも客席は白髪や髪の薄い人ばかりになっている現状を述べていますが、
今のクラシック音楽を支えているのは60代以降の人たちで40~50代になるとその割合は激減しているといいます。
ヨーロッパのように伝統芸能や観光資源でなくあくまで一つの外来文化にすぎないという事情が平成の次の御代はますます顕在化するだろうと片山氏は予想します。
しかしそれでも、クラシック音楽は一定規模で定着している趣味には違いないけれども、
たとえ縮小するにしても「市民権」がある以上適正な規模での生き残りを主張していけばなお未来はあるのではないかと提言しています。
資本主義国の経済と社会の様相が変貌し厚い中産層が解体し貧富の差が広まるということは、
クラシック界に限らず様々な分野でそれを支える階層が壊れていくことを予感させます。高度成長の価値観を引きずっていくことからの変換が求められているのです。
|