わが社のある太田市は、いまさら言うまでもなく関東平野の始まりに位置しています。
後背部は山に囲まれ、大間々扇状地と呼ばれる地盤の上にあり、渡良瀬、利根の水源にも恵まれて古墳時代の遺跡が多くみられ、
東日本最大と言われる天神山古墳もあります。大きな災害もなく住み易い場所だったのでしょうか、会社の周りにある幾つもの
こんもりした丘陵はすべて古墳ばかりで、昔多くの人が住んでいたものと思われます。
現在は北関東一の工業都市として自動車、電機産業が盛んですが、昭和の初めまでは養蚕を中心とした鄙びた農村地帯だったと
思われます。
今日の工業都市の元になったのが戦前、戦中の「中島飛行機製作所」でした。 敗戦後解体され現在の富士重工に引継がれて今の
工業都市・太田市がありますが、この飛行機製造のために全国から工業技術者が集められ、解体後もこの地で事業を興し製造業の
一翼を担っている経営者の方が多くおられます。
「隼」や「疾風」・「呑龍」などの名機を生んだ中島飛行機でしたが、軍需工場だったため戦争末期にはB29の空襲により爆撃され、
多くの悲劇も生みました。
今手掛けている受楽寺山門もその被害にあったひとつで、戦前は駅の北口に本堂と共にありましたが、空襲により本堂を焼失、幸い
山門だけは残り、戦後昭和34年頃現在の地に解体移築されました。 偶然にもその解体移築を行ったのが当社の先代棟梁・倉次で、
今回改修を手掛けられたのも縁を感じありがたく思いました。 山門をはじめ、虹梁、垂木等の欅材に深い傷が何箇所もあり、
補修のために鑿で彫ると鉄の破片が出てきます。当初意味が分かりませんでしたが関係者の方からの話で爆弾の破片が入った傷で
あることが分かりました。その方角からして本堂に落ちた爆弾の一部だったのでしょう。
固い欅材ですが、あたかも豆腐にでも
刺さったように入っている鉄片を見るに、人への破壊力が想像できるというものです。
まさに生き証人です。
戦後63年後に棘を抜くように
破片を抜いてあげて、同じ欅材で埋め直しておきました。
改修の仕事はその作り手と対話するようで新築とは違った体験ができ勉強になりましす。解体修理を予測してか、木材に墨で当時の大工の
落書きや名前の書き込みがあったりしますが、技術的には感心することの方が多いのが事実です。一つの例で、破風板の拝み部分の合わせも
今はボルト類の金物で引き寄せてしまうことが多くなりましたが、ここではちゃんと「吸付き桟に鯱栓」 という技法で取り付けてありました。若い大工には恰好の施工例で、参考に見させた後は一授業終わったような達成感が残りました。
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