10月の会社の研修旅行で岐阜県西北部にある華厳寺を訪ねてきました。
正式には谷汲山華厳寺(たにくみさん けごんじ)といい西国三十三所巡礼の三十三番札納めの満願の寺となっています。
西国三十三所巡礼とは近畿2府5県にまたがる33ヶ所の観音霊場を廻りこの華厳寺を三十三番目として終わる巡礼のことで、
来年2018年に開創1,300年を迎えるといいますからその古さが分かります。
1番目の和歌山・青岸渡寺(せいがんとじ)から始まる三十三ヶ寺には関西の由緒ある寺院が並び、
紀三井寺、長谷寺、興福寺、醍醐寺、清水寺、一乗寺などかつて訪れたことのある有名寺院も含まれています。
奈良時代の718年に始められたとされ平安時代花山法皇が巡礼、その後貴族階層に広まり室町に庶民にまで浸透し、
最も盛んになったのが江戸時代中期以降といわれています。
四国にも四国八十八ヶ所巡礼という有名な巡礼がありますが、こちらは山岳信仰などに由来する海辺や山中で苦行する道が遍路になったもので、
弘法大師とともに歩くとされ「同行二人(どうぎょうににん)」と呼ばれます。
それに対して西国三十三ヶ所は観音様の慈悲を授かる巡礼で遍路とは呼びません。
観音様は正式には観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)といい、極楽浄土にいる阿弥陀如来と違い観音様はあえて浄土にはいかないとされます。
現世で苦しむ人々を幸せにしようと誓いを立て三十三の姿に変えて現れると信じられ、
観音経では三十三は無限を意味しあらゆる姿に変えて人々を救ってくれるとされているのです。
華厳寺のある場所は岐阜県でも滋賀県境の伊吹山地に近い揖斐郡という山の中にあります。
バス駐車場から坂を上がっていくと偉容を誇る仁王門が見えてきますが、
本堂のある場所まではさらに坂を上り百数十段はありそうな階段を昇って行かねばなりません。
三十二所の寺を廻って来た巡礼者には、さぞかしきつい階段に感じられるのではないでしょうか。
明治八年の再建といわれる銅板瓦棒葺きの入母屋形式の本堂は狭い山の境内いっぱいに作られています。
内部の外陣は板葺きで土足のまま上がることができ、壁や扉もなく開放的に作られています。
そして周囲には満願の寺ならではの満願堂や笈摺堂と呼ばれるお堂が所狭しと並んでいます。
笈摺堂(おいずるどう)は巡礼者が道中を共にした笈摺や金剛杖を修めるお堂です。
笈摺とは巡礼中に着用する白い木綿の羽織のことで、
白い笈摺には死装束の意味もあるとされ巡礼の途中で行き倒れた場合その土地のやり方でそのまま埋葬してもらえるようにという思いが込められていたといいます。
それだけ昔の巡礼は決死の覚悟で行なわれていたのでしょう。この華厳寺で満願を迎えた巡礼者はこれまで世話になった笈摺をここに奉納して納めることで、
聖なるあの世から俗界であるこの世へ戻るための節目の儀式としていたのでしょうか。何十万着という笈摺がお堂の中にうずたかく積まれていてその思いが伝わってきます。
本堂向拝の柱には銅製の鯉のレリーフが打ち付けてあります。「精進落としの鯉」と呼ばれるもので、
かつて巡礼の間は肉食を断って精進生活を送るのが一般的だったので巡礼を終えこの鯉を撫でた手を舐めることで精進生活から解かれ、
「精進落ち」としたと伝わります。何人もの人に撫でられたらしい銅製の鯉は緑青をふくこともなく地金のブロンズの色に輝いていました。
山号の谷汲は境内の岩から湧いた油を汲んで本尊の奉灯に用いたことから、
また寺号は本尊に華厳経が写経されていたことから醍醐天皇によってそれぞれ授けられたと伝わります。
本尊は秘伝と伝わる十一面観世音菩薩。「世の音を目で見るのではなく苦しむ人の声なき声を心で観る」と言われています。
大乗仏教の多くが念仏を唱えることによっての救済を説きそれが広く庶民に受け入れられました。
死後の「極楽往生」を望むために現世を耐え忍ぶという、ある意味「諦観」と来世を信じよという安易な阿片的な教えで支配層の偽計を感じる部分もありますが、
それに対して観音信仰は「現世」の利益を願うことを旨としています。
生きている者にとっては現世こそが唯一のこの世であって、そこに喜びと共に多くの悩みや病気や苦しみがあるものです。
それゆえ三十三所を巡りその癒しを受けたいがために西国では多くの根強い人気を持ち続けているのでしょう。
この世での悩みや苦しみを背負った人びとは一心に観世音菩薩に救いを求めますが、それはすべてを他力でお任せするのではなく、
巡礼を通して得た自分のこれからの決意と覚悟を聞いていただき、その背中を押していただけるようお願いするのが本来の観音信仰なのではないかと、
山深い華厳寺境内を歩きながら考えていました。
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