いま前橋市の上沖町というところで神社の拝殿を耐震補強する工事を行っていますが、その途上、上泉町という場所を通ります。
ここは上州が生んだ偉大な歴史上の人物とされる不世出の剣聖・上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)が生まれたところとして知られています。
「剣聖」といわれてもピンとこないかもしれませんが剣術の「新陰流(しんかげりゅう)」の流祖といえば聞いたことがあるでしょうか。
当方も剣術には不案内ですが、それまで剣術という人を斬る殺人術が、最終的に「活人術」という人を生かす剣術に道を開き、
現在の剣道に繋がる理論と哲学を信綱がもたらしたとされているのです。資料によれば、新陰流兵法は信綱が戦国の世に創始した日本の剣術を代表する流派で、
日本剣術の三代源流と呼ばれる念流・香取神道流・陰流を学んだのち、特に陰流より「転(まろばし)の道」というのを抽出して新陰流を大成したとあります。
分かりづらいですが、要は新陰流の剣が心技において構えを無くし、攻めと守りを一つにした「無形」を極意としているとされるのです。
これらは相手を威圧して斬る「殺人刀」に対して、相手に技を出させて勝ちを取る「活人剣(かつにんけん)」として敵を大いに働かせ、
自らは「居ながらにして勝つ」妙技といわれます。そしてなんといっても信綱の弟子として柳生石舟斎がいて新陰流を普及し、
その子柳生宗矩が徳川家剣術指南役となったことでその地位を不動のものにしました。
信綱が生まれたのは永正五年(1508年)といいますから、室町から戦国の時代に移る端境期で、
出自は藤原秀郷を祖にその子孫の大胡一族より出た上泉城主の家に生まれていますから、一介の農民や在野の人ではなかったようです。
若くして頭角を現し、常陸国鹿島などへ行って当時の剣術を習得し23歳で相伝、更に諸流を工夫し新陰流を創出していきます。
その噂は人口に膾炙し、武田軍との箕輪城攻防戦ではその武勇から「上野国の一本槍」と呼ばれ、
武田信玄より再三の招請を受けたものの新陰流の普及に努めたいと固辞したことが伝えられ、この時信玄から一字をもらい受け信綱を名乗ったとされます。
やがて京に上り将軍足利義輝に剣を指導、正親町(おおぎまち)天皇御前での天覧試合という名誉を受け従四位下まで昇任するまでになったといいますから、
剣術のみならず品格、教養の高い文武両道の人だったことが窺い知れます。
ある日信綱は強盗が幼児を人質に立てこもる場面に遭遇し、すぐに頭を剃って出家を装い近付きました。強盗に握り飯を差し出し気を取られている隙に取り
押さえ、幼児を無事救出したというエピソードが残されています。この話が黒澤明監督の「七人の侍」の一シーンとしても使われているとされていますが、
映画を思い起こしてはてどの場面だったか俄かには浮かびません。
現在剣道で使われている竹刀も元々は信綱が考案した袋竹刀というのが元になってできたようで、これによりケガや落命が激減して技術が飛躍的に向上したとされています。
信綱の剣術の精神はその後柳生家に受け継がれ、太平の世になった徳川時代に「兵を通して身を修める」という形で武士の間に根付いていきました。
全日本剣道選手権をテレビで見たことがありますが、
勝負の決まり手が一瞬なので見ているほうも瞬きもできないほどに緊張を強いられるのにたまらなく魅了されたことを覚えています。
そして試合前後の礼や一つ一つの所作の美しさに普段からの修練
の厳しさを感じ取れるのです。
信綱の墓所は上泉の西林寺という曹洞宗の寺院にあり、ひと際大きく区画され花が絶えないようです。
上泉町の上泉城址には信綱の生誕五百年を記念して下段の構えをした信綱の銅像が凛として建っています。
そしてその脇には現在柳生家16代当主である耕一平厳信(こういちたいらのとしのぶ)氏の揮毫により生誕の碑があり、そこには「真実の人也」と刻まれています。
当社も私で5代目になりますが、柳生家の16代と比べてしまうと足元にも及びません。家業の剣術とは言え、
中には不得手な世代もあっただろうによくぞ16代も剣の道を継いできたものだと感心します。
そこには真実の人信綱の教えに共鳴する深い思想性というものがなかったらできなかったろうと想像しています。
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