佐渡島は日本海に浮かぶ、沖縄本島に次ぐ面積を持つ大きな島ですが、金山をはじめ歴史に度々登場する島でもあります。 連休を使って佐渡を訪れてきました。
新潟港から両津港まで佐渡汽船のフェリーで約2時間半掛けて海峡を渡ります。
海岸線は段丘を成して絶壁が続き、リアス式海岸のように地盤の沈下を想像させますが、案内板によれば日本海形成時に隆起が起こって作られた段丘だそうで、
荒々しい岩肌は荒波によって削られたとのことでその気候の厳しさが窺い知れます。
大佐渡スカイラインから眺めてみると二つの島が隣り合った中に平野部が形成されていることが分かります。この平野部は国仲平野と呼ばれ、
古代より海中に沈んだり現れたりを繰り返してきたといいます。行った五月上旬には大佐渡にあるドンデン山には残雪が残り、
国仲平野では400丁歩といわれる水田地帯が田植え時期を迎えて満々と水を湛えていました。現在は島全体が佐渡市という1市に統合され人口5万余といいます。
歴史的には金の産出が確認されてからは江戸幕府の直轄地とされ、幕府を財政面から支えていくことになりますが、それまでは伊豆や隠岐と共に遠流の島としての印象が強くあります。
古くは722年(養老6)流人1号として万葉歌人の穂積朝臣老(ほずみのあそみのおゆ)が天皇への不敬罪で流されて以来、
中世までに順徳上皇、日蓮聖人、京極為兼、日野資朝、世阿弥など政治上の争いに敗れたり、思想的な弾圧を受けて流されてきた数は76人に上るといわれています。
多くの教養人が流されたためこの地に数々の哀話と共に貴族文化が根付きいくつかの寺院や能舞台などが残されました。
その中で唯一の皇族であった順徳上皇は鎌倉時代初めに起こった「承久の乱」に敗れて佐渡に流されてきました。
真野にある日蓮宗の妙宣寺という古刹はその順徳上皇に従ってきた北面の武士遠藤為盛が開基とされ、
江戸期建立の重文・五重塔は新潟県下で唯一のもので日光東照宮の五重塔を模したとされています。
1221年(承久三)の承久の乱は西国の王権である皇室と東国の王権である幕府が正面衝突した戦でした。皇室側の中心は後鳥羽上皇で幕府側の執権は二代北条義時でしたが、
その内容は討幕を目論んだ上皇側が仕掛けた戦に幕府側が応戦する形で東国武士団と西国武士団の戦いとなったものでした。
北条政子の有名な名演説もあって関東武士団が団結し幕府側の勝利に終わるのですが、その結果として後鳥羽上皇を隠岐に、息子の土御門上皇を土佐へ、
順徳上皇を佐渡に流して幼い仲恭天皇を廃するという、空前絶後の厳罰が皇室側に科せられたのでした。武士が皇族を処罰するというこれまででは考えられなかった事件で、
山本七平氏はこれを「日本史上最大の事件」とも呼んでいます。
この乱後、六波羅探題が置かれ幕府支配による東国と西国の統一がなされ、政治が朝廷から幕府に移されたという意味では歴史的転換点になったものと評価されています。
当事者で乱後佐渡に流された順徳上皇はこの時24歳で以後在島22年、46歳の時に帰京の望みがないことを悟って配所にて断食により自ら命を絶ったといわれています。
「思いきや雲の上をば余所に見て 真野の入り江にて朽果むとは」の辞世の句を残していますが、その無念さが佐渡歴史伝説館に寸劇展示されています。
またこの句の中にある真野の地に順徳上皇が火葬された場所が「真野御陵」という名で残されています。玉垣によって区分された御陵は宮内庁の管轄で管理されていますが、
御神木らしき大杉の木立の太さがその歴史の長さを伝えています。帰京が叶わなった院でしたが、
没後遺骨だけは京都・大原の地に帰り父・後鳥羽院の傍らに埋葬されているそうです。
このことからも三代執権となっていた北条泰時の鎌倉側は後鳥羽院共々配流からの帰京を許さなかったことが分かります。
この乱後10年ほどして泰時は有名な「関東御成敗式目」を定めます。
大澤真幸氏は近著「日本史のなぞ」でこの式目こそ日本史上唯一の革命家と呼んでもいい北条泰時の最大の功績だと称賛しています。
式目とは法律を定めたことで、その理念は11人の評定衆による裁判の公正性にあるといいます。
しかも中国などの法律を模して改変した継受法でなく初めて自国の実情に合わせた固有法で作られ、
分かりやすく無学な武士でも理解できるようになっていて日本人の秩序感覚に非常によく合っていたとされます。
やがて基本法のようなものになって行き、室町、江戸時代を通して武士にとどまらず公家たちにも教養書や法学根拠として扱われ明治5年の学制発布の後もしばらく続いたといいます。
下って昭和5年頃にも御成敗式目の素読を学び、これを手本に手習いをした老人があった、と伝える記録があるといいます。
佐渡に流された順徳院はさぞかし無念であったろうとは思いますが、そのことにより後年革命的な法体系が整備され、
多くの日本人民がみじめな思いをせずに済んだことを考えるとこれに功績があったと言えなくもありませんね。
教育勅語の復権より御成敗式目の素読を勧めたほうが良いのでないでしょうか。
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