奈良・東大寺は奈良時代における国家的大事業のシンボルとして造られ、ユネスコの世界遺産にも登録されている華厳宗の総本山です。
寺院は官寺と氏寺に分けられますが、東大寺はいわずと知れた聖武天皇直々の官寺でその境内は12万坪あるとされています。大仏殿を中心として、
南に南大門、東に二月堂と法華堂、西に戒壇院など国宝29件を擁する大寺です。東大寺とは「平城京の東にある大寺院」の意味から来ていますが、
その壮大さから天平人のスケール感の大きさに感嘆します。728年聖武天皇が早世した皇太子の菩提を弔うため発願したのが開基とされています。
その東側に位置する二月堂で春先行なわれるのが「お水取り」で、今回それをみる機会を得ることができました。
お水取りは通称で、正式には修二会(しゅにえ)または「十一面悔過(じゅういちめんけか)」といい、
選ばれた11名の練行衆(れんぎょうしゅう)とよばれる修行僧が様々な行を行う一連の儀式のことを指します。
毎年3月1日から14日の間に行われ、12日の日に最大の11本の松明(たいまつ)が上がり、
夜半に御本尊にお供えする「お香水」を井戸から汲み上げる儀式が行われることから「お水取り」と呼ばれています。
したがって秘儀にあたる「お水取り」は12日の真夜中にだけ行われる儀式のため一般には見ることはできません。
舞台の上をお松明が走るのは本数の差こそあれ14日間毎日行われるもので、巷間間違った伝わり方をされているようです。
かつては旧暦の二月であったことから二月堂と呼ばれ、修二会になったといわれます。
しかし現実の拝観は開始午後7時30分に対して午後4時から受付、ひたすら待機ということになります。
一緒に行った仲間が東大寺の北河原前貫主と知己であったことから招待客身分で臨みましたが、それでも5時以降になると入場制限が掛かるため4時半前からの待機となりました。
3月といってもまだ奈良盆地の空気は冷たく芝の上での手持無沙汰の座り待ちはこたえました。
待つこと三時間余、しっぽりと暮れた境内に浮かび上がった二月堂舞台上の松明を見たときは感動を覚えました。
この松明は暗い堂内で幾日も修行をしてきた練行衆が外に出て目が慣れないための道案内として焚かれるもので、本来は物見遊山で見るようなものではないはずで、
見ている我々もつい目を閉じ手を合わせるしぐさにさせられるものです。それにしても尋常でない人の混みようです。
一般の人たちは境内を延々と取り巻く後列のひとのために松明一本終わるごとに一団が移動、退場させられるというありさまです。
戦後間もない昭和二十年代、司馬遼太郎さんが初めて修二会を訪れた頃は講中の信心深い老人が堂内に入って拝観している程度で、
10余人ほどの野次馬しかいなかったと記しています。それを思うと隔世の感があります。
我々も帰りの混みようを考慮して8時過ぎに二月堂を後にしましたが、帰路の裏参道から見上げた二月堂の屋根の上には満月が登り、
舞台松明との灯りの競演という情景を仰ぎ見ることができました。
「不退の行法」といわれ天平以来1,260年余一度も欠かさずに行われて来た行事です。
平家の南都焼き討ちなどの兵火や地震など度重なる厄災にも難を逃れてきた二月堂ですが、
自らの松明の火で寛文年間に炎上し家綱によって再建された際も隣の三月堂で続けられたといいます。現在の二月堂はそのときの江戸期再建のものですが、
当時の工匠は天平建築の様式を踏襲して懸崖造りをはじめ創建時の意匠を残す配慮を見せ傑作の誉れ高い建築を残してくれました。
見ている我々を一気に天平の時代にタイムスリップさせてくれる修二会の儀式。
不合理は承知の上で頑なに守っている様には強烈な文化意識すら感じさせられます。
様変わることが常の世の中にあって千年以上も変わることがないということが一つでもあったほうが—むしろなければ—この世に重心というものがなくなり、
人々は訳もなく不安になるのではないか、という言さえあります。
正式名称の「十一面悔過」とは、われわれが日常に犯している様々な過ちをご本尊の十一面観世音菩薩の前で懺悔することを意味するのだそうです。疫病や災害、
戦災の多かった古代、自らの罪過の積み重ねが災禍を生むと考えられ、それを本尊の前で発露、
告白して許しを請うことによって災いのない世界を実現し幸福を呼び込もうとしたのが華厳経の教えといいます。
科学の発達した合理性の中にある現代に於いても失われない普遍的な倫理のようなものを感じます。
松明に照らされた二月堂の上に登った春霞の満月を見て、そこに神々しさを感じてしまうのは天平の人も今の人も、
そして千年後の人も変わらないのではないか、いやそうあってほしい、そんなことを思わせてくれる体験でした。
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